2011.4.10

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「そんな人は知らない」

村椿嘉信

イザヤ書53,1-5; マルコによる福音書14,66-72

テキスト(旧約):イザヤ書53章1-5節

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

テキスト(新約):マルコによる福音書14章66-72節

ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

ペトロの否認:

 イエスは捕らえられ、大祭司のところに連行されました。大祭司らユダヤ教の主立った人たちは、すでにイエスを十字架で処刑することを決めていたように思われます。十字架にかけることを前提とした取り調べがなされました。 弟子のペトロは、イエスが捕らえられる直前に、イエスに向かって、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14,31)と力を込めて語りました。そのペトロは、イエスが実際に捕らえられ、取り調べがなされたときに、どのような行動をとったでしょうか。力を込めて、胸をはって、そのように語ってから、まだわずかしか時間がたっていませんでした。 ペトロはイエスのあとを追って大祭司の家の中庭まで行きました。しかしそこで恐怖にとらわれたのでしょうか。そこに居合わせた人々にイエスの仲間ではないかと問われ、3度もイエスを知らないと言いました。 聖書の言葉をそのままたどりますと次のようになります(14,66-72)。 まずは、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にし、ペトロをじっと見つめて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言いました。。 しかしペトロは、それをすぐに打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言いました。そして出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いたそうです。 そのペトロの行動を女中は目撃していて、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲 間です」と再び言い始めました。 ペトロは、再び打ち消します。 しばらくして、今度は、そこに居合わせた人 々がペトロに言いました。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」。すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めました。ここに「呪いの言葉さえ口にしながら‥‥誓い始めた」とありますから、かなり強い調子で、自分がイエスにまったく関わりのない人間であると示そうとしたのだと思われます。 するとすぐに、鶏(にわとり)が再び鳴きました。ペトロは、そこでやっと「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出しました。そして、いきなり泣きだしたと書かれています。

 

そんな人は知らない:

 そんな人は知らないという言葉は、とっさに、軽い気持から出てきた言葉なのかもしれません。よく考えずに、身を守ろうとする本能から出てきた言葉なのかもしれません。でも、前後関係から、その時のペトロ自身の本心であったことには間違いなさそうです。これ以上イエスに関わると、自分にも危害が加わるかもしれません。でもそれだけは何としても避けたいという思いから、イエスとの関わりをはっきり否定するために出てきた言葉でした。

 「そんな人は知らない」あるいは、「そんなことは知らない」「そんなことは自分の知ったことではない」という言葉を私たちもとっさに、気軽に、語る‥‥ということはないでしょうか。

 ペテロは、決して、イエスを捕らえようとしたり、処刑しようとしたのではありません。悪事を行っている張本人ではありません。イエスが捕らえられ、取り調べを受けている責任がペトロにあるのではありません。ただそのイエスとの関与を否定しただけです。このくらいのことなら赦されるのではないかと私たちも考えてはいないでしょうか。

 私たちがもしペトロの立場だったら、どうするだろうかと考えることはとても意味のあることだと思います。私たちもイエスについて、「そんな人は知らない」と、とっさに言うかもしれません。あるいは、相手はイエスでなくても、私たちはそれぞれの日常生活の中で、気軽に、「そんな人のことは知らない」「そんなことは自分の知ったことではない」と語っているかもしれません。「人が助けを求め、困っているのは知っている。でもその人は、自分とは関係がない。そんな人のことは知らない」とか、「いろいろ問題があることは知っている。でも自分とは関係がない。自分の知ったことではない」と語ることがあるのではないでしょうか。知っている相手であるのに、相手に関わりたくないと考え、「そんな人は知らない」と偽ること、相手を無視すること、これはまさに、人間の罪です。そしてそれは、「人を愛すること」とは正反対の行為です。

 

隣人について「知らない」と言うこと:

 さてイエスは、困難な状況に立たされている人に対して私たちがすることは、イエスに対してすることと同じであると語ったことがあります。逆に、助けを求めて叫んでいる人に対して何もしないことは、イエスに対して何もしないことになります。

 そういう人たちが存在することじたいを知らないから、何もしないということもあるかもしれません。

 でも本当は知っていながら、その人との関与を否定することがあります。その言葉が「その人は知らない」というペトロの言葉なのです。相手がパンを求めている、あるいは助けを求めていると知っていながら、自分はその人に関わりたくないという思いから「知らない」という言葉が出てきます。知っていながら、でも相手との関与を否定するために使われるのが、「私は知りません」という言葉なのです。

 東北地方で大地震が起き、津波による被害が出てから、約1ヶ月が過ぎようとしていますが、まだ被災地には多くの人たちが取り残されています。何かしなければと考え、実際に行動を起こしている人もいます。また義援金などを送り、少しでも何かできればと考えている人たちも多いと思われます。でも大多数の人たちの中には、その人たちのことは、自分とは直接関係がないことだと考えている人たちが多いのではないかと思います。「私は直接、関係がありません」、「私の知っている人はいません」ということでなく、どれだけ自分が関わっていくかがまさに問われているのだといえます。

 ところで今は、新聞でもテレビなどのニュースでも被災地のこと、それから今回の地震で起きた原子力発電所の事故のことで一杯です。誰かのことに関心を寄せると、誰かのことを忘れてしまうのが私たちです。

 私は教会関係の用事があって、先週、沖縄に行きましたが、沖縄では、いろいろな事件が起きていました。たとえばこういうことがありました。今年1月に沖縄市で自動車の正面衝突事故があり、就職したばかりの19歳の女性が死亡しました。事故は市内の一般道路で起こりました。事故を起こした23歳の男性は、自動車運転過失致死罪で送検されましたが、那覇地検は不起訴処分にしました。どうして不起訴になったかといいますと、事故を起こした相手が、在沖米国空軍の軍属で、米軍が「公務中の事故」と判断したために米軍が裁判権を行使することになったからです。「公務中」であるかどうかの判定は、日本側が下すことはできません。米軍が一方的に「公務中」だと認定すれば、日本側が裁判を行うことはできませ。これは、日米地位協定で決められていることです。あきらかに日本領土内の、民間地で起きた事故であるのに、軍事演習中ではなく、自家用車を使って帰宅中の事故であるにもかかわらず、日本側で裁判ができないのです。事故を起こした青年は空軍の軍属と公表されていますが、民間人で、おそらく米国企業から派遣された技術者ではないかと思われます。企業からの圧力で、在沖米軍も、「公務中の事故」と言わざるをえなかったのかもしれません。またそもそも米軍関係者の車両事故がなくならないのは、基地の中と外とで、走行する車線が異なることが最大の理由であると考えられます。沖縄の人たちにとっては大きな問題ですが、ただでさえ沖縄のことは、本土のマスコミでは扱われないのに、今のような状況では、まったくといっていいほど、取り上げられません。

 でも決して沖縄についての情報が何もないのではありません。ちょっと関心を持てば、沖縄でこの間、どんなことが起きているかを私たちは知ることができます。沖縄の人たちがどんな関心をもっているか、知ろうと思えば知ることができます。マスコミの報道の仕方にも問題があるかもしれませんが、私たちが沖縄の人たちのことを知ろうするか、それとも「そんな人たちのことは、知らない」と言うか、私たちの姿勢こそが問題です。 だからといって、決して、みんなが沖縄のことに関心を持てばいいということではありません。それぞれが関心を持つこと、関心を持ち続けること、そして一度、関心を持った人たちのことを、後になって「知りません」などと言わないことが大切なことです。 マザーテレサの言葉にこういう言葉があります。「わたしは一般大衆を責任の対象と見なしたことは一度もありません。わたしは個人を相手にします。わたしは同時に一人しか愛せません。同時に一人にしか食べさせることはできないのです。対象はつねにひとりなのです」。 マザーテレサが多くの人たちを助け、大きな業績を残したことは言うまでもありません。でも一人ひとりとていねいに関わること、一人ひとりを大切にすること、相手とともに生きることが大切だと言おうとしたのです。 自分が支えなければならな人は誰なのかを考え、「そんな人は知りません」と言わず、その相手と関わり続けることが大切なことだと思います。

 その際に私たちが考えてみなければならないことは、イエスは「あなたのことは知らない」とは言われなかったということです。イエスは私たちに常に「あなたとともにいる」と言われます。そのイエスのもとで、私たちは、愛をもってともに歩む者となりましょう。

祈り:
ペトロはイエスのことを「そんな人は知らない」と言いました。
私たちも、「そんな人は知らない」と言うことがあるかもしれません。
しかしイエスは私たちに向かって「そんな人は知らない」とは言われませんでした。
イエスは常に私たちに向かって「あなたとともにいる」と呼びかけてくださいます。
私たちがイエスと、そしてまたイエスの兄弟姉妹とともに生きることができますように。
アーメン


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