2011.4.3

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「苦難の道」

村椿嘉信

イザヤ書52,13-15; マタイによる福音書7,13-14

テキスト(旧約):イザヤ書52章13−15節

見よ、わたしの僕は栄える。
はるかに高く上げられ、あがめられる。 かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
彼の姿は損なわれ、人とは見えず
もはや人の子の面影はない。 それほどに、彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て、王たちも口を閉ざす。
だれも物語らなかったことを見
一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

テキスト(新約):マタイによる福音7章13−14節

狭い門から入りなさい。
滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
それを見いだす者は少ない。

狭い門

 昨年の9月に、ドイツのオーバーアーマガウでイエスの受難劇を見ました。10年に1度、オーバーアーマガウの村人だけで上演されるというものです。

 その受難劇は、中世から伝わる古い台本をもとにしていますが、その台本は、伝統を踏まえつつも、その都度、新しくされて上演しています。

 第2次世界大戦後に、この台本は大幅に書き直されました。なぜかというと、その台本に反ユダヤ主義的傾向があったからです。そのためこの受難劇は第2次世界大戦中に、当時のドイツ帝国の総統ヒトラーによって政治的に利用されたこともありました。ヒトラーは「イエスを十字架にかけたのは、ユダヤ民族である」と、繰り返しユダヤ民族に対する反感や差別意識を煽(あお)りました。それゆえ戦後は反ユダヤ的な色彩を取り除くことが最重要の課題となりました。そのためのさまざまな工夫のあとを今回も見ることができました。たとえば最後の晩餐の場面では、ユダヤ教の過越の食事が再現されています。イエスは、十字架にかけられる直前の木曜日の晩に弟子たちと食卓を囲みましたが、それは、ユダヤ教の「過越しの祭り」の食事でした。そもそもイエス自身、ユダヤ人でありましたし、ユダヤ教の伝統の中に生きていました。

 イエスを十字架につけたのは誰かという問いに対して、今日では誰も、短絡的に「ユダヤ人」に責任があるとは考えないと思います。しかし実際にはユダヤ人に対する差別や偏見が今も残っており、かつては多くのユダヤ人が「ユダヤ人であるというだけの理由」で虐殺されていった事実を踏まえ、台本の丁寧な改訂の作業がなされていると思いました。イエスを十字架にかけたことに対して、ローマ人である総督ピラトやローマの兵隊たちにもそれなりの責任があると描かれていますし、また群衆がイエスを「十字架に!」と叫ぶシーンなどでは、時代や場所が異なっても、人間の群衆心理がいかに判断を狂わせるものであるかが描かれていました。

 さて、今回の改良点としては、ひとつはイエスの台詞が短くなったことを挙げることができます。前回の10年前の演劇の台本を見ると、イエスが長い説教をする場面が多く、まるで演説会で演説を聞いているかのようでした。しかし今回は、人々と対話をする場面、短い言葉でやりとりする場面が多くなりました。この背景には、ドイツでも日本でも同じかもしれませんが、現代の人々が長々とした演説や説教を好まないという傾向があるのかもしれません。私も、今までに説教が長いと言われたことが何度かありますが、どうも長い話は好まれないようです。それではイエスはどうだったのかといいますと、決して長い話はしなかったのではないか、むしろ目の前にいる相手の顔を見ながら、短いけれどもその都度、適切な言葉を語ったのではないかと考えられます。

 もうひとつの改良点としては、総監督のクリスチャン・シュトッケルが書き記していることですが、受難劇の中に山上の説教や、イエスと出会った人たちとの回想シーンを数多く取り入れた点でした。

 このことによって、イエスの「言葉」と「行動」、イエスの「説教」と「十字架にいたる苦難の道」が、同じひとりのイエスのものであることがよく描かれていたように思います。

 福音書の記者は、イエスの十字架を知っており、その上でさまざまな伝承を集めたり、編集したりしているわけですから、それぞれの福音書が一貫しているのは当然といえば当然なのですが、イエス自身の教えと生涯の歩み、特に十字架への歩みが一貫していたということは、とても大切な指摘ではないかと思います。

 さきほど私たちは山上の説教の一部から「狭い門」についてのイエスの言葉を読みましたけれども、このイエスの言葉を、私たちはイエスの生涯の歩みに結び付けて理解することができます。イエスは、広くて、誰でもが楽に通りぬけることができる門ではなく、狭い門から入りなさいと語りましたが、その場合にイエスはただ「狭い門から入りなさい」と語っただけではなく、イエス自身が「狭い門」から入ろうとしました。そのことの意味を、十字架をどのように理解すべきかということと関連させて、今日は考えてみたいと思います。

狭い門、広い場所へ

 さて、イエス自身、人々が歩む広い門は通らず、狭い門から入り、狭い道を歩みました。その結果、イエスはどうなったのでしょうか。またイエスは弟子たちにどのような歩みをするように指示したのでしょうか。

 イエスは決して狭い場所に閉じこもったのでも、弟子たちに、この世を避けて、ひっそりと静かに歩みなさいとすすめたのでもありませんでした。人と関わらず、祈りと瞑想の生活をするようにと命じたのでもありませんでした。

 イエスは、むしろ町や村や里へ、多くの人、病人、トラブルを抱える人、差別されている人、異国から来た旅人のもとへと出かけていきました。イエスは実に広い場所で活動しており、イエスの交わりは、いつも多くの人たちに開かれたものでした。イエスは弟子たちや群衆に、無理難題を押しつけたり、できないことをするように命じたりはしませんでした。むしろ愛ゆえに、あらゆる人たちを受け入れ、あらゆる人たちとともに歩もうとされました。

 それなのに、多くの人たちがイエスのもとを去り、弟子たちでさえイエスに背を向けたのは、イエスが十字架に至る苦難の道を歩んだからでした。「狭さ」は、イエスが十字架に至る苦難の道を歩んだこと、弟子たちにもそれぞれの十字架を負うようにと求めたことにありました。

 イエスは、一人ひとりが自分の負うべき十字架と向き合うことなしには、中に入れないと考えました。それが狭い門なのです。

教会について考える

 ここで私たちは、教会の宣教について考えることができます。イエスは、決して「教会の門を狭くしなさい。あまり人が入れないようにしなさい」と言おうとしたのではありません。「教会の扉はいつも閉じたままにしておいて、必要な時にだけ開きなさい」ということではありません。そうではなく、教会の門はあらゆる人たちに開かれ、だれでもが気軽に入れるような場所でなければならないと思います。教会は、誰もが気軽に入れるオープンで、フリーなスペースです。その教会に入る門も、開放的なものでなければなりません。ではどこが狭いのかといいますと、それはイエスの十字架という難しい課題から来る狭さだと考えることができます。十字架がしばしばつまづきを与えてしまい、そこが原因となってそれ以上、前へ進めないということが起こるのです。

十字架という狭い門:

 かつてドイツのケルン市の日本語教会で牧師として働いていたとき、日本から来た学生をケルン市内の美術館に案内したときのことです。

 ケルン市の中央駅のすぐ近くに、カトリックの大聖堂があり、そのとなりに大きな美術館があります。その中に、中世ドイツのおびただしい数の祭壇画が展示されているコーナーがありました。祭壇画というのは、カトリック教会の祭壇に置かれていた絵画または彫刻で、ケルンの美術館には、ライン地方の3つのパネルからなる古い祭壇画が集められていました。そこには、十字架にかけられたイエスの姿が描かれていました。日本から来たその学生はそれを見て気持ちが悪くなり、吐き気がして、途中で見るのをやめてしまいました。私はその時のことをよく思い起こします。どうして気分が悪くなったかというと、それが、十字架にかけられたイエスが血をながしながら死んでいくというむごたらしい場面だったからです。

 私はそこで何かを感じてほしいと思いました。すぐには無理でも、そのような祭壇画を見ることによって、少しずつでも何かを考えていってほしいと思いました。もし、気分が悪くなったというだけでそこで考えがとまってしまうなら、イエスがみずからの命をもって伝えたかった大切なものが理解できなくなってしまいます。その時に、「狭い門から入りなさい」とはこういうことなのかと思いました。

 イエスの十字架の光景を見て、私たちがまず第1に理解すべきことは、私たち人間がどのようなものかということです。

 人はいつの日にか死を迎えることになります。

 あたたかい環境の中で生涯を終える人もいます。それがどんなにしあわせなことか。

 むごたらしい死もあります。

 死ななくてよいはずの人が、自然の災害で、いのちを落とすことがあります。

 死ななくてよいはずの人が、人間の罪悪によって、いのちを落とすことがあります。

 戦争のために生命を奪われる人たちがいます。

 いまも世界のどこかでが戦争が行われています。

 戦場で、一般市民が、子どもたちが無くなっていきます。

 そうかと思えば、経済的に繁栄している国で、だれにも見取られずに、ひっそり亡くなっていく人たちもいます。

 真実を訴えたために、弾圧される人たちがいます。

 十字架のイエスを見つめることによって、私たちが考えなければならないことは、イエスの十字架が、私たちの世界の中の悲惨な現実をさし示しているということです。

 

十字架を見つめるとは、自分を見つめること:

 私は、十字架を見つめるとは、「鏡」で自分を見るようなものだと思います。私たちが鏡をのぞくと、そこには自分が映し出されます。「十字架という鏡」は、私たちの現実の姿を映し出すものです。そこには、どんな自分が映し出されているのでしょうか。

 十字架という鏡に映し出そうとするとき、その人の置かれている状況によって見えてくるものが異なります。 

 苦しんでいる人は、「人から痛めつけられ、見捨てられ、苦しんでいるイエス」を見て、自分と同じようにイエスも苦しんでいるということを発見するようになります。「自分は苦しい。でもイエスさまも同じだ!」と思うようになります。

 人を苦しめている人は、「人々に苦しめられているイエス」を見て、自分も同じようにイエスを苦しめているということを発見するようになります。「自分は人を苦しめている。イエスさまを苦しめう人と同じだ!」と思うようになります。

 いずれにせよ、私たちは、十字架を見ることによって、自分自身に向き合うことになります。

 十字架を見つめるとは、自分の罪、人間の罪と向き合うことです。このことを私たちは避けることができません。これこそが、私たちが「通り抜けなければならない門」です。この門をくぐりぬけなければ、その先を歩むことはできません。

十字架を見つめるとは、神を見つめること:

 さて十字架を通して見えてくるものは、決して人間の醜さ、罪、残酷さだけではありません。イエスの十字架を見て私たちが第2に理解すべきことは、人間のいのちの大切さ、尊さであり、たとえ世界の悲惨な現実のただ中にあっても、神が働く、神の力が注がれているという事実です。

 十字架の祭壇画は、この世のものとは思えない恐ろしい光景の中でも神が働いており、神が私たちの生命を支えてくれるということを示すものです。

 無名の画家や彫刻家たちは、人間のむごたらしさを、これでもか、これでもかと描こうとしたのではなく、そういった現実に直面しても、私たちに光を与えてくれる神がいて、神は私たちを見捨てないということを示そうとしたのです。

 そこに闇の光景が描かれているのは、光の働きを際立たせるためであって、決して闇の光景そのものを描きだそうとしているのではありません。

 十字架の祭壇画は、苦しみがあっても、私たち人間が、神の力に生きることができることを示しています。

 光を与えてくれる神がいて、私たちを決して見捨てないことを教えてくれます。

 暗い闇夜のただ中にあっても、外から光が注がれていることを知らせてくれます。

 苦しみのただ中にあっても、神の赦し、愛を信じ、希望をもって生きることが可能だと教えてくれます。それこそが、イエスの十字架がさし示すものです。

狭い門はどこに至る門なのか:

 さて聖書は、人間はみな祝福されていると教えています。同時に、人間はみな罪人であると語っています。人間にはそれら両方の面があるのだといえます。

 大多数の人たちは、人間は、そういういい面も、わるい面もあるのだから、祝福を受けて、いいところを生かそうとして努力すればいいのではないか、悪い面は人間だからあって当然だからほっておいていいのではないかと考えます。このように歩むことは、広い門から入るということです。

 しかし私たちは、十字架を避けて通ることはできません。私たちは自分の罪に向き合い、その赦しを求めなければなりません。そのときに、私たちは根底から新しくされ、神に生かされるようになるからです。これこそが狭い門から歩むということです。

 狭い門から入るということは、十字架を見つめ、自分の罪に向き合うことです。その狭い門から入る者は、門のところで立ちどまってしまうのではなく、その門の中に入ることを許されます。

 大切なことは、神に招かれることによって、罪に向き合い、罪を乗り越えて、祝福されたものとして神の前に歩むということです。十字架を見つめるということは、狭い門から入ることを意味しますが、その狭い門は、私たちが自由に、愛をもって、希望に生きることのできる広い場所へとつながっています。狭い門とは神の国への入り口です。私たちは、自分の罪と向き合うことによってこそ、神に生かされ、神に愛と希望を与えられて、神の国に歩むことができるようになるのです。

祈ります。
「主なる神さま、
イエスは、狭い門から入りなさいと言われました。
私たちが、十字架にかけられたイエスを見つめ、
この世の私たちの悲惨な現実を見つめながら歩むことができますように。
あなたは、そのような私たちを、
広い、自由な、愛と希望に満ちた空間へと招いてくださいます。
狭い門は、神の国に至る門です。
狭い門から入ることができるようお導きください。
主イエスキリストのみ名によって祈り願います。
アーメン


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