2011.2.27

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「他者への愛」

村椿嘉信

イザヤ書55,1-3; マタイによる福音書5,43-48

テキスト(旧約):イザヤ書55章1-3節

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。
ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

テキスト(新約):マタイによる福音書5章43-48節

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

無関心、見捨てること:

先週の金曜日に、カトリック教会関連の集会に招かれ、その集会後、いろいろな方たちと個人的に話し合っていたときに、マザーテレサのことが話題になりました。それは一言で言えば、日本の教会のこれからのありようを考える場合に、マザーテレサーの目指したことが、とても大きな示唆を与えるという内容でした。どのような施設をつくるとか、どのような活動をするかという次元ばかりでなく、教会そのものの日常的なあり方を考える場合に、マザーテレサに学ぶことがあるのではないかということでした。

マザーテレサについては、ここで改めて述べる必要はないと思いますが、1910年に旧ユーゴスラビア、現在のマケドニアに生まれ、インドに渡りカルカッタで高校の教師を務め、戦後になってから、「貧しい人のなかでもいちばん貧しい人たちのために一生を捧げよう」と決意し、カルカッタの貧民街で活動を始めました。その後、「神の愛の宣教者会」という女子修道会を創立し、「死を待つ人の家」、「孤児の家」、「救癩(らい)活動」の施設をインド各地に創設し、1979年ノーベル平和賞を受賞しました。1997年に亡くなりましたから、すでに若い人たちにとっては、一時代前の人物ということになるのかもしれません。しかしその影響は、時代とともに薄れるどころか、世界各地でますます語り継がれ、またその活動も広がっています。

マザーテレサの言葉としてこういう言葉が知られています。それは、「愛の反対は、憎しみではなく、無関心である」という言葉です。この言葉は、しかし、別の人たちも語っています。たとえば、アメリカの心理学者のロロ・メイとか、作家のエリ・ヴィーゼルも同じような言葉を残しています。また内容的にも、同じようなことを語った人はいるのではないかと思います。したがってこの言葉は、マザーテレサのオリジナルではないかもしれませんが、この言葉がマザーテレサの活動とともに人々に記憶され、多くの人たちの共感を得ているという点で、「マザーテレサの言葉」といっていいのではないかと思います。

「愛の反対は、憎しみではありません」

憎しみというのは、相手に関心があるからこそ、私たちが抱く感情です。関心のない人に憎しみを抱く人はいません。相手が、家族の一員だからこそ、身近な人だからこそ、私たちは相手を深く憎むようになり、相手が許せなくなります。でもよく考えれば、私たちが憎しみを抱く相手は、自分の身近にいて、自分にとって大切な人であるという場合が圧倒的に多いのです。

相手に対してまったく愛がわかない、憎しみもわかない、相手はいても、いなくても、同じである‥‥という場合に、その相手に無関心になります。現代は、まさに無関心が蔓延している時代、愛が冷えている時代であるといえます。

マザーテレサの言葉に、さらにこういう言葉があります。マザーテレサが、いろいろな場面で語った言葉です。

「人生にとって最大の不幸は見捨てられることです」

あるいはこういう言葉もあります。

「今日の最大の病気は、‥‥自分はいてもいなくてもいい、誰もかまってくれない、みんなから見捨てられていると感じることです」

さらにこういう言葉もあります。

「人に生きる力を与えるのは<愛>であり、人を絶望の淵に追いやるのは<見捨てること>です」

 相手を見捨てるということは、相手に無関心である‥‥ということと同じ内容だと考えることができます。その意味で、マザーテレサの一連の言葉は、現代の不幸が何であるのか、現代社会の問題がどこにあるのかを鋭く指摘するものとなっています。

 現代の最大の不幸は、見捨てられることだといえます。お年寄りが見捨てられ、ひっそりと息をひきとることがあります。失業者が、社会からも、家族からも見捨てられることがあります。学校や企業に適応できない人たちが、学校や企業からだけでなく、社会からも切り捨てられることがあります。長期療養をしなければならない人たちが、肩身の狭い思いをしながら、生活保護を申請しなければならないことがあります。病気になって苦しい、しかしその苦しみばかりでなく、社会から見捨てられるという苦しみがさらに重くのしかかってきます。

 

 見捨てられることが最大の不幸だということを、ボンヘッファーも指摘しています。ボンヘッファーの場合は、イエスの十字架について語りながら、イエスは十字架で「苦しんだ」だけでなく、「見捨てられた」のだと語っています。イエスは、やがて自分が十字架にかけられるようになると予告したときに、自分はやがて十字架で「苦しめられ、見捨てられる」と語りました。また実際に十字架上で、「エロイ エロイ レマ サバクタニ」(わが神、わが神、なぜあなたは私をお見捨てになったのですか)(マルコ15,34)と語りました。

ボンヘッファーは『服従』日本語では『キリストに従う』という題で訳されている書物の中で、苦しむことより、見捨てられることのほうが深刻な問題なのだと指摘し、こういう内容のことを書いています。

 たとえ私たちが苦しみを受けることがあっても、誰かが慰めてくれるかもしれません。誰かが励ましてくれるかもしれません。誰かが重荷を担い、誰かが助けてくれるかもしれません

でも捨てられるということは、誰も慰めてくれない、誰も励ましてくれない、だれも支えてくれない。それが捨てられるということなのだ‥‥と述べています。

その上で、ボンヘッファーは、「十字架によって死ぬということは、捨てられた者、排斥された者として、苦しみ、かつ死ぬことである」と述べています。

ボンヘッファーも、相手に対して無関心であること、あるいは相手を見捨てることこそが、最も大きな罪であると考えていたのだと思います。また当時すでにヒトラーの率いるナチス政権が権力を握り、ひたすら戦争への道を準備しつつありましたが、その根底に「政治的無関心」があること、また障害者、同性愛者、外国人、ユダヤ人などを見捨てる動きがあることを見抜いていたといえます。

イエスは、見捨てられた者として、十字架で苦しみました。身体的には苦しいけれども、多くの人たちに理解され、励まされ、何とか苦しみに耐えられる‥‥という状況ではなく、弟子たちからみ捨てられ、当時の指導者たちからも、一般の群衆からも見捨てられた状況で苦しみました。

イエスは十字架で、当時の社会から見捨てられ、同じ状況に置かれている人たちの苦しみを味わい、その人たちの声を代弁して、こう語りました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これはイエス自身の叫びでもあったと思いますが、イエスと同じように見捨てられた人たちの声を代弁するものでもあったと思います。

しかし神さまは、決して、私たちを見捨てるような方ではありません。神さまはみ子イエス愛しましたし、また一人ひとりを愛をもって見守っていてくださる方です。そのことをイエスは身をもって示してくれました。復活のできごとは、愛に満ちた神さまが愛を貫いて生きたイエスを決して見捨てなかったということ、そして私たち一人ひとりを愛し、決して見捨てないということを指し示しています。

ニュージーランドで地震が起こり、今もなお瓦礫の山の中に取り残されている人がいます。多くの関係者が、その人たちを見捨てることなく、何とかして助けだそうと、日夜、努力を続けています。クライストチャーチの町の責任者は、おそらく市長だったと思いますが、「あなたがたの家族は私たちの家族です。あなたがたの子どもは、私たちの子どもです。そういう思いで救援活動を続けています」と述べたそうですが、このような姿勢を持つことはとても大切なことです。

またリビアでも民主化を求める人たちが声をあげています。世界中から支援しようとする声があがり、支援しようとする人たちの輪が広がっています。

相手を見捨てない、相手に無関心にならない‥‥これが大切なことです。相手の苦しみに無関心にならない、相手にも家族がいて、相手にも生活があって、相手にもいろいろな思いがあるということに関心をもつ、そしてともに生きる道をさぐる、それが愛だと言えます。

よく知られているイエスのたとえ話に、「よきサマリア人のたとえ」(ルカ10,25以下)がありますが、当時、神殿に仕え、指導的な立場にあった祭司長や律法学舎は、に襲われた人が倒れているのを見つつも、その人に関心を持つことなく、その人を見捨てて、つまりその人と関わることを避けて、道の向こう側を通って去っていきました。しかし同じようにたまたまそこを通りかかったサマリヤ人は、見捨てることはしませんでした。イエスは、このサマリヤ人のように、隣人を愛しなさいと言われました。愛することとは、相手に関心を持つこと、相手を決して見捨てないことを意味します。

愛の神さまは、私たちを見捨てることはありません。罪人である私たちに関わり、私たちに関心をもち、私たちを見守り、私たちを支えてくださいます。神さまは、こんなどうしようもない自分に対しても関心を持ち、見捨てることなく、関わってくださるのです。

私たちは聖書から、「神さまが私を見捨てられない」ということを知るばかりでなく、「自分だけではなく、私たちに隣り合って存在するさまざまな人たちをも見捨てられない、神さまはその人たちにも関わってくださる」ということを知ることになります。

神さまが私たちを見捨てられないのに、私たちは誰かを見捨てるのでしょうか。それでよいのでしょうか。

人生の中には、今まで親しくしていた人と、ある時点で、別の道を歩み出すということもあります。でもそれは見捨てることではありません。具体的には、いろいろな場面で、「関心を持つということがどういうことなのか」、「相手を見捨てないといういことがどういうことなのか」を考えなければなりませんが、もし私たちが愛を持って生きることをやめてしまうと、ますます無関心が増大し、お互いに相手を見捨てたり、切り捨てるようになっていきます。

人を愛するという場合に、注意しなければならないことがあります。私たちはどうしても身近な人たちを愛そうとします。私たちは、たいていは、家族は見捨てず、自分たちの友人や知人には、無関心にならずに生きています。実際に、すべての人たちに関心を持ち、すべての人たちを愛して生きるということは物理的に不可能です。

しかしイエスの「敵を愛しなさい」という教えを、自分にとって「近くにいる人たち」だけではなく、「遠くにいる人たち」にも関心を持ちなさい‥‥というように理解すべきではないでしょうか。

飢餓で苦しんでいる人がいないか。あるいはどの交わりにも入れられずに、孤独の中を歩んでいる人はいないか。誰からも援助してもえない人、誰からも助けてもらえない人、誰からも生きる権利を保障してもらえない人、‥‥そういう人がいないかと、私たちは周囲を見回すことができます。そしてその人たちに愛の手を差しのべることができます。

その場合に、自分ひとの力では何もできない‥‥と思うことはありません。そのためにこそ、教会があるのです。教会という交わりは、自分ひとりの力ではできないことを、それぞれの力を合わせて実現するところだといえます。

誰に対しても無関心にならない、誰をも見捨てない、そういう愛に満ちた教会を目指していきたいと思います。また地域社会に対しても、無関心こそ、見捨てることこそが、もっとも大きな不幸であると訴え、支え合ってともに歩むあり方を追い求めていく教会として歩んでいけたらと思います。

神さま、
私たちは身近な人たちには関心を持ち、ともに生きようとします。
しかし遠くにいる人たちには関心を持たなかったり、
ともに生きようと努力することを怠ってしまうことがあります。
あなたは、そのような私たちをあなたの愛のうちに生かし、
私たちをともに生きる者としてくださいます。
あなたのみわざを覚え、あなたの愛を忘れずに、
私たちが、近くにいる人たちとも、遠くにいる人たちとも、
ともに生きることができるように導いてください。
特に困難な状況に置かれている人たちに対して、
私たちが無関心であったり、見捨てたりすることがありませんように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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