2011.2.6

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「互いに生かし合う」

村椿嘉信

レビ記19,9-18; コリントの信徒への手紙一 12,12-26

テキスト(旧約):レビ記19章9−18節

穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。  あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。  あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

テキスト(新約):コリントの信徒への手紙(1)12章12−26節

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

対立、不和:

 人間の集まるところでは、かならずといってよいほど、対立や分裂、不和や混乱が起こります。それは私たち人間が、自分の判断こそ正しいと考え、自分の利益を常に優先させようとするからではないでしょうか。また、他者とともに生きようとせず、しかも真実から遠ざかろうとするからでではないでしょうか。職場や学校で、さらには家庭や教会の中でさえ、意見の違いや小さなすれ違いが、深刻な事態にまで発展することがあります。

 コリントの信徒への第1の手紙を読むと、この世で活動を開始したばかりの教会の中にも分裂や混乱が生じたことがわかります。私は、こともあろうに「教会」の中に分裂が生じたことを思うと、悲しくなります。皆さんも、そういう話を聞くと、落胆したり、教会そのものに嫌気がさしてしまうかもしれません。しかしパウロは、そのありさまを嘆くばかりでなく、どのようにその混乱を乗り越えることができるかを指摘しています。

なぜ対立が起こるのか:

 パウロは、コリントの信徒への手紙(1)の3章の3節で、コリントの教会の信徒たちに向かって、

「あなたがたの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいるということになりはしませんか」

と語りかけています。

 つまり、教会であろうと、なかろうと、ただの人間がちもに生きようとする以上、ねたみや争いは絶えなくて、当然だとパウロは指摘しています。

 キリストの教会といっても、そこに集まる人たちは、人間にすぎません。

 どんなに理想的なことを語っても、どんなに立派な行いをしようと努力しても、人間は人間にすぎません。人間である以上、意見や生き方が違って、ときにはぶつかり合うことは避けることはできません。問題は、それをどう克服するかだと私は思います。

私たちを成長させてくださる神:

 パウロは、3章の7節で、そういった混乱の中にも、「私たちを成長させてくださる神」がおられると述べています。そしてその神さまを信頼し、その神さまのもとで「力を合わせて働く」ときに、私たちは、それぞれの違いを乗り越えて、ともに歩むことが大切だと語っています。

 私たち人間の交わりを船にたとえることができます。

 福音書の中には、弟子たちが船に乗り込んだところ、暴風雨が起きたという箇所があります(マルコによる福音書4章35節)。

 暴風雨が起こると、船は波に飲まれそうになります。船は浸水し、沈みそうになります。その船に乗っているのは、人間です。弟子たちといえども、人間です。

 人間は、船が沈みそうになると、慌てふためき、船を正しい方向にあやつることができなくなります。何かをしようとすると、ますます船は波に飲み込まれていきます。

 これは人間である以上、避けられないことです。そもそも暴風雨を避けることはできません。

 でも教会という船が、キリスト者の交わりという船が、ほかの船とは違うところがあります。それは、その船の中に、イエスさまがいてくださる‥‥ということです。イエスさまがいてくださるから、たとえ船が波にのみこまれそうになり、沈みかけても、私たちは、安心して目的地へ向かうことができます。いやイエスさまが、私たちを向こう岸へと導いてくれます。

 大切なことは、神がともにいてくださる、主イエス・キリストがここにおられる‥‥ということです。主イエスを中心に交わりを築き、ともに歩むときに、私たちはさまざまな混乱を乗り越えて前進することができます。

それぞれの賜物を生かし合って:

 パウロは、「私たちを成長させてくださる神さまがおられる」と指摘しながら、その神さまのもとで、私たち一人ひとりが、それぞれの役割を探しだし、それぞれが力を合わせて、ともに歩むようにと勧めています。

 私たちの間に、考え方や生き方の違いがあっても、それを対立や混乱の原因とさせてはならないのです。むしろそれぞれの「違い」を、私たちを成長させてくださる神さまのもとで生かし合うことが大切なことなのです。

 パウロは12章で、身体の各部分がそれぞれの役割を果たすことによって、人間はひとつの全体として生きていくことができると指摘しています。教会にも、また家庭や人間のさまざまな交わりにも、このことは当てはまります。

 ともに力を合わせて働くということは、みんなが同じことをしなければならないということではありません。

 自分には、これはできる。自分はそんなに積極的に、神さまのためといって、大きな働きができるわけではないかもしれないけれども、人の話を聞くことはできる。いっしょに泣いたり、笑ったりすることはできる、いっしょに祈ることはできる‥‥。いや、自分にはもう少し余裕がある。やろうと思えば、もう少し力がある、時間がある。‥‥このうように、それぞれが力を出し合って、それぞれの違いをお互いのために生かすことが大切です。

 パウロは、コリントの信徒への第1の手紙で、「すべてがひとつの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう」と語っています。教会に集まる人たちが、みな同じように考えたり、行動したりすることがあるとすれば、それは、本当の一致ではありません。たとえば信仰について質問すると、イエス・キリストの救いについて尋ねると、判を押したような返事が返ってくる‥‥ということがあるとしたら、そこで一人ひとりが神さまに生かされているとは言えないのではないでしょうか。

 足は手になる必要はないし、足に手の役割を負わせる必要もありません。足は手のようになれないといって、嘆く必要はありません。足は、足としての役割を十分に果たすことが求められています。だけど決して、足は足だけで孤立しているのではありません。足が足としての役割を負うことができるように、体のそれぞれの部分は、足の働きを支えています。また足が痛めば、その足に無理をさせないように、体の他の部分が足をかばったり、負担がかからないようにします。それぞれの部分が補い合い、支え合って、自分ひとりでは決してできないことができるようになります。それが教会です。

愛によって:

 さて、パウロは、12章で一つひとつの部分があって、それが生かされてこそ、ともに歩むことができるようになると述べ、そしてさらに13章で、愛について述べています。

 パウロは決して、12章でひとつのテーマについて論じ、次の13章で、まったく別の新しいテーマについて論じているわけではありません。

 私たちには、それぞれ違った存在であり、その違いを強調すれば、私たちは、争い合ったり、ねたみ合ったりし、不和や対立が起こるばかりなのですが、私たちを生かしてくださる神さまがおられることを知り、それぞれに神さまから与えられているものを生かすことによって、ともに歩むことができるようになります。パウロは、その時に、「もっとも大切なものは、愛である」とこの部分で指摘しています

 13章の冒頭に、

「どんなに立派な言葉を語り、どんなに立派な行動を起こそうとも、もし愛がなければ、一切は無に等しい」と書かれています。

さらに2節後半で、「山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなえれば、無に等しい」と書かれています。

パウロは、決して信仰において一致しなさいとか、信仰があれば一致できるのだ‥‥とは語っていません。たとえ完全な信仰を持っていようとも‥‥という部分は、たとえ自分ひとりが、完全な信仰を告白し、神さまを信じようとも‥‥というようにとらえることができます。

自分が神さまと向き合い、神さまを信じ、神さまとの正しい関係に立っていると考えようとも、もしその自分自身が、他者との生きた、真実な関係に生きなければ、隣人を愛し、隣人とともに生きようとしなければ、神とさまの真実な関係に生きているとは言えない‥‥ということです。隣人を愛すことなしに、自分だけ神を愛そうとしても、それは神さまの望んでいることではない、それでは神さまを愛することにはならない‥‥ということです。

 愛とは、異質なものをひとつに結びつける力です。神さまは、罪人である私たちを愛し、受け入れてくださいました。私たち罪人と和解し、その罪を赦してくださいました。そして私たちが、地上的なさまざまな違いを乗り越え、愛をもってお互いを受け入れ、ともに歩むようにと導き、必要な力を与えていてくれます。同じものどうしが結びつくのは、当たり前です。しかし異なる者が、以前は他人であった者どうしが結びつくのです。

イエスも、パウロも、何よりも、神さまが私たちを愛し、受け入れてくださると語りました。そして私たちを愛し、私たちを成長させてくださる神さまのもとで、愛を持って生きることが大切だと語りました。そのことを、私たちは、忘れないようにしたいと思います。

 私はあなたがたを愛している! 私があなたがたを成長させる!‥‥と語りかけてくださる神さまがおられます。

その神さまは、遠くから、私たちを招いたり、励ましたり、力づけてくださるというのではなく、私たちと同じ船に乗り込んでくださいます。その愛に生きるながら、私たちも愛する者となって、それぞれを生かし合い、ともに力を合わせて歩みましょう。


神さま、
あなたは、私たちを愛し、私たちのために
愛するみ子イエス・キリストを遣わしてくださいました。
心から感謝します。
あなたが私たち一人ひとりをみ心に留め、
私たちを愛のうちに生かしてくださることを覚え、
私たちもまた、あなたの愛のうちに生き、
隣人兄弟姉妹とともに愛を持って歩むことができるようお導きください。
それぞれの違いを、お互いのために生かすことができますように。
困難な中にあっても、お互いに重荷をにない合い、
あなたのもとで、喜びを持って歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン


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