あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。
そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
羊も牛も、野の獣も
空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
ある海外の小説家が、「人間は軽いほうがいいのか、重いほうがいいのか」を論じている文章を読んだことがあります。これは冗談ですが、天使のように自由に空を飛び回りたいと考えるなら、軽くならなければならないのかもしれません。軽いほうが、軽快で、機転を利かせ、自由に動きまわれる‥‥ということになりそうです。ダイエットをする人たちがいます。もちろん軽いほうがいいと考えてのことだと思います。軽いほうがいい‥‥というものはたくさんあります。病気は重いよりも軽いほうがいいし、車のハンドルは重いよりも軽いほうがいい、私たちの心も重いより軽いほうがいいし、罪も重いより軽いほうがいい‥‥と私たちは考えます。しかし逆に、軽いということは、華奢で、風が吹けばすぐに飛ばされることだ、軽いということは、頼りがいがないということだと考える方もおられるかもしれません。
一方、重いということは、しっかりとしていて、周囲の動きに惑わされない、頼りがいがあるということだと考えられます。しかし重いものは、動きが鈍く、飛び上がることができない、それどころかますます深みに沈んでいく‥‥というイメージもあります。
私たち人間の存在のことを考える場合、どうなのでしょうか。いのちというものは、人間の存在というものは、軽いものなのでしょうか。重いものなのでしょうか。皆さんはどう考えられるでしょうか。
聖書によれば、人間のいのち、人間という存在は、重たいものだと言えます。聖書の中には、「人間のいのちは重たい」というような直接的な表現はありませんが、先ほど、お読みしました詩編の8編には、こう書かれています。
人間という存在は、「神さまのみ手のわざ」であり、神さまは、人間に「みこころを留めてくださる」。人間のことを「顧みてくださる」と書かれています(5節)。
また「神さまは、人間を、神にわずかに劣るものとして造られた、そして栄光と威光を冠としていだかせ、神さまが創造したすべてのものを治めるようにと足元に置いてくださった」(6-7節)と書かれています。
人間は神さまによって創造されたものであり、人間は神になることはできません。でもその人間を神さまは、み心にとめ、かえりみてくださるのです。私たちは、神様に「わずかに劣るもの」(6節)として造られており、その神さまにとって私たちは重たい存在であり、私たちはその神さまのもとに重たい存在として生かされているのです。
でも、そういう人間の存在が軽くなりつつあるのが現代であるといえないでしょうか。
企業などで、それぞれの役職にある人たちが、それぞれの仕事をしていると思いますが、でもその人がいなくなると企業がつぶれてしまうとか、ぽっかり穴があいてしまいその空白を誰も埋めることができない‥‥などということはあり得ないのではないでしょうか。もちろん企業などでも、生き残りのために、一人ひとりが個性を発揮して仕事をするように求められているところもあります。でもその場合でも、それは企業全体の利益を求めてのことであり、その人がたとえいなくなってもすぐに穴埋めできるようにするというのが大多数の企業の経営方針ではないでしょうか。
同じ地域、同じアパートに住んでいる人が亡くなっても、誰も気づかないということもあります。いわゆる「近所づきあい」というものが希薄になっている、あるいはなくなっているというのは、大都会だけでなく、どこにも見られる現象かもしれません。でもたとえば私が住んでいた沖縄の宜野湾市では、誰かが亡くなると朝早く、公民館の有線放送で、「だれだれが亡くなられましたので謹んでお知らせします。葬儀はどこどこで‥‥」というようなアナウンスが流れます。それは、その地域の人びとにとって、自分たちの近くに住んでいるいる人が亡くなることは、周辺の人びとが知るべきこととみなされているからだと思います。
しかし、いろいろな場所で人間がまるでひとつの部品のように扱われているのが現代社会です。自動車の部品がひとつ調子が悪くなれば、すぐに新しいものと交換すればよいのです。それで元通りになります。誰も痛むわけではありません。まだ壊れていなくても、調子が悪くなりそうな部品は、あらかじめ交換しておくということもできます。そのように、人間も、ある人が使い物にならないと判断されれば、他の人に交換されるような社会です。
人間関係が希薄になってきているというのは、社会現象なのかもしれませんが、それだけでなく、私たち自身の生き方の問題でもあります。私たちは、自分で「自分の存在を軽くしてしまうこと」もあるのではないでしょうか。なるべく自分のことは自分でする、人に迷惑をかけない、人の世話にならない、人にあれこれ気づかってもらわなくてもよい‥‥そういう生き方をつきつめていけば、人との関わり、心と心が通じ合うような人との関係はなくなってしまいます。なるべく人と関わらないで生きるほうがよい、という生き方を続けていると、他の人に迷惑をかけなくて気が楽かもしれませんが、自分の存在が他の人にとって何の関わりもなくなってしまいます。
年をとって介護を必要とするようになっても、周囲の人たちに負担をかけないようにする‥‥ということは、とても大切なことだと思います。自分にできることは、自分でするほうが、自分の身体的機能を維持するため、隠された生命力を引き出すためにもよいです。でも人は、誰かの助けなしに生きていくことはできません。そしてお互いに助け合って、ともに生きていくことは、人間として当然のことです。それは人間というものが一人ひとり重たいものだからです。この人はどうでもいい、この人は軽く扱っていい‥‥という人はひとりもいないのです。負担をかけないようにするというのではなく、負担をけけて当然なのだけど、その負担がどこかに集中することなく、それぞれが負担し合って、ともに支え合って歩むことのできる関係をつくるべきだと思います。
それは一人ひとりが神さまに造られ、神さまに生かされている存在だからです。神さまはその一人ひとりのことを心に留めていてくださいます。その一人ひとりを、守り、導いておられるのです。
主イエスは、羊が1匹ぐらいいなくなっても、99匹いるから、かまわないとは考えませんでした。いなくなった羊一匹を探しにいくという聖書のたとえ話(マタイ18章10節以下他)のように、イエスは実際に一人ひとりを大切にし、声をかけ、見守っていてくださるのです。一人ひとりの人間が、取り替えることのできない存在であり、大切なものであり、重たいものであるからです。
教会は、そのような重たい人たちどうしの交わりです。一人欠けても何も変わらない‥‥ということはありません。教会からひとりの人が欠ける、あるいは亡くなるときに、教会には、ぽっかり穴が開いてしまいます。その空いた場所に誰かを入れようとしても、そこには誰も入らないのです。
そして教会に誰かを迎え入れるということは、教会を舟にたとえるなら、その一人のために舟全体が沈んでしまうかもしれないほど、大きなことです。それほど、一人ひとりの人間が重たい存在であるからです。でもその重たい存在である人たちが、ともに受け入れ合い、支え合って神さまの前を歩むときに、私たちは、お互いに大きな喜びのうちに、力強く歩むことができるのです。ともに支え合うときに、舟は沈没することなく、目的地へ向かって力強く滑り出すのです。
教会とは、すでにいなくなった人たちのためにも席が残されている場であり、またこれから加わる人たちのためにも席が用意されている場だといえるのではないでしょうか。今、ここにいる私たちだけではなく、世代を超えて、私たちは神さまに招かれ、ともに歩んでいるのです。
さてそれでは、その私たちはどれほど重たい存在なのでしょうか。
主イエスは、ヨハネによる福音書15章11節以下で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と語っています。そしてこの言葉どおりに互いに愛し合って生きるならば、その人たちは主イエスの「友」であると言っています。そして13節の部分で、「友のために自分のいのちを捨てるほど、これ以上の大きな愛はない」と語っています。大切なことは、このように語った主イエスこそ、友のために自分のいのちを捨てられる方だったということです。 イエスは、地上で出会った人々を受け入れ、愛し、ともに歩もうとされました。罪人を受け入れ、貧しい人々をかえりみ、ともに助け合って生きようとしました。そしてそのような歩みを、「自分のいのちが狙われているから」といって、やめようとはしませんでした。自分のいのちを投げ出してでも、迷っている1匹の羊を探し、一人ひとりの人間を受け入れ、ともに歩もうとしたのが、主イエスの生涯でした。
つまり私たち一人ひとりの重さというのは、主イエスがその一人のために自分のいのちを投げ出してもいいと考えているほどの重さなのです。というか、私たちとともに生きようとして、自分のいのちを十字架で投げ出したほどの重さなのです。
教会は、今日、私たち「人間の存在がどれほど重いものであるかを」語り伝えていなければなならないと思います。「人間のいのちが軽視されている時代」にあって、「人間がひとりいなくなっても何もなかったかのように次の日が訪れるこの社会」にあって、十字架のできごとが語っていること、つまり「人間が一人ひとり神に顧みられている」ということ、「神に愛されている」ということ、「一人ひとりが大切な存在である」ということを、私たち自身、聖書から確認するとともに、この世に向かって力強く語ってい者となりましょう。
神さま、
あなたは、私たち一人ひとりのことをみ心に留めてくださいます。
あなたは私たち一人ひとりのことをかえりみてくださいます。
そのことを覚え、感謝します。
あなたが、私たちを愛していてくださることを覚え、
私たちも互いに愛する者となって歩むことができるよう、お導びきください。
主イエスが人々を愛されたように、十字架に架けられても人々を愛しとおされたように、
私たちも愛をもって歩むことができますように。
重たい存在である一人ひとりが、あなたによって生かされ、
主イエスによってひとつとされ、ともに助け合いながら歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン