I
キリスト教会とは、その自己理解に従えば、神がキリストを通して呼び出した者たちの共同体です。その根拠はキリストです。そしてキリストは、信仰者各人や個々の教会共同体の内側に完全にとり込まれてしまうことの決してない、その意味では私たちの外側にある存在です。私たちの外側にあるキリストが教会の中心です。ですから私たちを相互に結びあわせるのはキリストへの信仰だけです。会員相互のその他の共通性――例えば民族、言語、出身地、社会層、政治信条、趣味など――は教会形成の規準ではありません。
他方で信仰の根本理解、宣教や教会のあり方をめぐる基本理解の違いも、じっさいに存在します。そもそもプロテスタント教会は、信仰理解の根本的な違いを論拠に、教会を分裂させることで成立しました。私たちはその末裔です。プロテスタント諸派の歴史そのものが限りない分裂の歴史です。私たちはこのことを、本来は深い痛みとともに覚えておくべきです。私たちが所属する教派においても、例えば洗礼を受けていない人を聖餐式に招いてよいかをめぐって分裂があります。また私たちの教会でも、古代教会から用いられてきた使徒信条を礼拝で唱和するかしないかをめぐって意見の違いがあります。
他方でこの代々木上原教会は、同じ教派の内部ではありますが、二つの教会が「合同」することによって生まれました。そのとき私たちは、〈さまざまな点で意見の違いがあっても、それでいっしょにやっていけないとは考えない。むしろ話し合いを続けることを重んじ、たんなる多数決によらず、皆で合意できたことから実行に移そう〉という原則を採択しました。
いったい異なる意見を排除せず、合意を目指して話し合いを続けることは、何に基づいて可能なのでしょうか。教会が多様性を内部に含みながらも、内部分裂的ないし家庭内離婚的にならず、むしろ根源的な一体感をもちながら、喜びに溢れて前進してゆくために必要なことは何でしょうか。
それは私たちが、外側にある私たちの中心としてのキリストに、つまり信仰の霊的な源泉につねに立ち返り、そこからくりかえし活力をえることにあるだろうと思います。この予想を胸に、パウロのテキストにとりくんでみましょう。
II
今日のテキストは、パウロがローマの教会共同体に宛てた書簡の中で、倫理的な勧告に転じるその冒頭にあたります。「こういうわけで、兄弟たち、・・・あなたがたに勧めます」(1節)とあるとおりです。
つごう三度、よく似た言葉使いが現れることが目立ちます。すなわちパウロは勧めの言葉を始めるごとに、「神の憐れみによって」(1節)、「わたしに与えられた恵みによって」(3節)、そして「私たちに与えられた恵みによって」(6節)という但し書きを加えるのです。
通常の倫理的な勧告は、当事者が何かの現実を自分たちの行動力を通して作りだすことを求めます。「私たちは〜すべきだ。そうすれば生きてゆけるだろう」というのが、その基本形です。これに対してパウロは、「神の慈しみ」「与えられた恵み」にそのつど言及することで、私たちに先立って神から与えられた現実を勧告の基盤として指し示します。キリスト者の行為と行動は、生の基盤を自力で造りだすことにはありません。基盤はむしろ神とキリストによって与えられています。キリスト者の倫理は、この先立って与えられた現実に対する「応答」としてのみ問題になります。つまり与えられた現実にふさわしく生きることができるかどうかが、キリスト教倫理の水準なのです。
すでにこのことから、共通して与えられた基礎に対する応答は、じっさいには多様であることが予測できます。
III
まずパウロは二つのことを勧めています(1-2節)。第一に、君たちの身体を生きた犠牲として神に捧げなさいという勧告、そして第二に、君たちはこの世と共なる形になってはならず、理性を新たにすることで神の意志を吟味すべきだという勧告です。
まず私たちの「体」を生きた犠牲として神に捧げることが、「なすべき礼拝」と言われています。「体」とはコミュニケーションの中にある存在としての私という意味です。それを神に捧げるとは、日曜日の礼拝に参加することだけではありません。そこには日常生活を含めた「私」のすべてが含まれます。
興味深いのは、新共同訳が「生けるいけにえ」と訳す表現のギリシア語の原義は「生ける犠牲」であること、また「なすべき礼拝」の原義が「ロゴス的な〔神への〕奉仕」であることです。本来、犠牲が犠牲として機能するには、奉献されたもの――鳩、山羊、羊、牛などの犠牲獣――は死んでいなくてはなりません。つまり「生ける犠牲」という表現は形容矛盾なのです。あえて無理な日本語を宛てれば、「生ける死に贄」と言えるでしょうか。他方で「ロゴス的な奉仕」という表現は、〈言葉による礼拝〉ないし〈理に適った神崇拝〉の意味に理解できます。私たちの日常生活を含む生の全体を神に捧げること、つまりときどき神殿に供物を運んだり、動物を殺して犠牲に捧げたりすることでなく、むしろ脱祭儀化された日常生活の只中における全存在的な神への奉仕が、理に適った・ロゴス的な礼拝であると言われているのです。
次にパウロは、日常生活で自らの存在を「生きた犠牲」として言葉的に神に捧げる者たちの共同体は、この「世」のありさまに同化されてはならない。そのような者たちは、むしろ理性(ギリシア語「ヌース」)の革新を通して、変身(メタモルフォーゼ)を遂げることで、「神の意志」を共同で検証できるようになるのがよいと言います。検証の主体は「あなたがた」つまり教会共同体です。君たちは共同の討議を通して、神の意志を求めなさいという意味です。
ちなみに新共同訳聖書は主語「あなたがた」をあえて訳出せず、「吟味する」という意味の動詞を「わきまえる」と訳出します。これは〈個人がその良心に従って自己を吟味する〉という伝統的な考え方を受けているのかもしれません。しかし文脈は個人による自己吟味ではなく、むしろ共同体的な討議の実践です。
IV
では、ロゴス的な神への奉仕と共同討議は、どのような構造を当該の共同体に与えるでしょうか。そのことに答えるのが次の段落(3-5節)です。そこでは、信仰が賢慮をもたらす一方で、多くの人が集まってひとつの統合体が生まれると言われています。
「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(3節後半)という新共同訳の訳文は、気の弱い私の耳には、〈教会には信仰の小さい人と大きい人がいて、それは神の定めによるので、とくに信仰の小さい者は自分の分を超えて出すぎたふるまいをしてはならない〉という意味に聞こえます。こんなことを言われたら、〈教会ってなんて恐ろしいところなんだ、なるべく黙っていよう!〉と思うのが人情というものではないでしょうか。
しかしギリシア語原文を逐語的に訳すと、まったく違う響きがあります。すなわち「思うべきことを超えて思わず、むしろ正しい慮りを目指して思いなさい。神が各人に信仰という尺度を与えたそのように」。――もともと個人の自己評価は問題ではありません。さらに「信仰の度合い」ではなく、「信仰という〔共通の〕尺度」について言われています。すると個々人の信仰の大小でなく、共同討議の参加者に共通して求められる姿勢のことが言われているのです。〈私たち各人には信仰が共通の尺度として与えられているのだから、それに従いつつ共同討議においては極端な思い込みをさけて、それぞれが正しい思いなし、つまり賢慮を目指そうではないか〉。なんとまっとうな勧めでしょう!
他方で身体の比喩(4-5節)は、共同体の統合性(一つの身体)と内的な多様性(多くの部分〔肢体〕)の関係を扱っています。ポイントは〈多いけれども一つ〉ではなく〈多くが集まって一つ〉という点にあります(5節前半「わたしたちは数は多いが・・・一つの体を形作っており」の原文は「私たち多くの者が・・・一つの体である」)。そしてもうひとつ大切なのは、この比喩にあって個(ないし部分)と全体が決して分離されないことです。
学校の運動会や文化祭などで、「みんなは一人のために、一人はみんなのために」という標語に出会うことがあります。たしかに私たちの社会では、ある集団が全体として特定個人の我侭放題に翻弄されたり、全体のための無茶な自己犠牲が個人に強いられたりすることが希でありません。個と全体の関係は、つねに緊張を孕んでいると思わされます。しかしパウロの発言では、個(部分)と全体は理念的なレベルでも切り離すことができません。彼の発言は個人主義でも集団主義でもありません。「各自は互いに部分なのです」(5節末)と訳された箇所の原文は、直訳すれば「〔私たちは〕個別的には他の人たちの肢体である」です。私は教会のある人に対しては「足」として働き、同時に別の人に対しては「目」の役割を果たし、同時にある人は私の「腕」となってくれるetc、という意味関連です。メンバー相互をつなぐ複雑なネットワークの総体が「一つの身体」です。ならば、私たちの間に何らかの「絆」が生まれるとき――例えば、赤ちゃんが礼拝に来てくれるだけで私たちは喜びに溢れ、ご高齢の方が礼拝堂に足を運ばれるのを目にするだけで深い尊敬の念に満たされて、勇気が沸いてきます――、そこに参与した一人ひとりがすでに「一つの体」の立派な構成要素なのです。「全体」の対概念である「部分」という訳語よりも、「肢体」ないし「枝」という古い訳語の方が適切であるように感じます。
V
最後の段落(6-8節)では、まず教会共同体において各人の担う役割が、「賜物(カリスマ)」と呼ばれます。それは「預言」「奉仕」「教え」「勧告」といったぐあいに複数あります。これらが教会という生活空間を構築します。そのさいカリスマは第一義的には機能であり、確立された職制や職務分担とはまだ関係がありません。パウロ時代にはまだ、後のカトリック教会の位階制度やプロテスタント教会の牧師制度はありませんでした。
この部分でも、新共同訳は「預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し」云々と訳しますが(6-8節前半)、職制の分担を連想させる「〜を受けているなら」という条件節は、ギリシア語原文にありません。原文は、「〔私たちは持っている〕また預言〔のカリスマ〕を信仰のアナロギアに従って、また奉仕〔のカリスマ〕を奉仕によって」云々です。したがってここで言われているのは、共同体を構成する複数のネットワークにおける、個々の肢体の多機能性であろうと思います。教会共同体は多機能的な肢体、一人二役以上をこなすメンバーの、受けたり与えたりする相互関係から生まれるひとつの統合体です。
これら複数のカリスマと並んで、最後に「施し」「指導」「慈善」という行為が現れます(8節後半-9節)。これらも、また神の霊的賜物なのでしょうか。よく分からないのですが、私には「預言」「奉仕」「教え」「勧告」といったカリスマ機能が具体的に実行される代表的な事例が、三つあげられているように思えてなりません。
ここでも新共同訳は「惜しまず施し〔なさい〕」「熱心に指導し〔なさい〕」「快く行いなさい」と三つの命令法をもっていますが、原文に命令法動詞はありません。原文は、「与える者は純真さにあって、先に立つ者は熱心さにあって、憐みをなす者は嬉しさにあって」です(最初の「惜しまず」は、原義「純真さ」のかなり強引な意訳です)。「〜にあって」という反復された表現に注目したいと思います。これは一つの統合的な身体性を構成する内部ネットワークを生きる者の、そのつどの存在モードを表示しているのではないでしょうか。つまり相互にカリスマを発揮するとき、私たちは「純真さ」「熱心さ」「嬉しさ」にあって生きるのです。
VI
教会が教会として歩んでゆくためには、つねに共同体の霊的源泉に立ち返り、そこから繰り返し活力をえることが大切であろう、という予想から出発しました。パウロの勧告から読みとれたのは以下のことです。第一に私たちには、生活の全体を神に捧げ、この世に同化することなく、新しい存在となって共同で「神の意志」を吟味することが相応しい。第二に、そうした歩みにあっては、信仰という共通尺度に即して、さまざまなかたちで互いを支えあう共同体の統合性を重んじることがよいだろう。そして第三に、この共同体に神から与えられた霊的な賜物は多機能的であり、それがネットワークとしての身体性(統合性)を支えていることを踏まえつつ、その実践の中で生きる喜びを感じとることがよい。
社会や世界の政治情勢を見れば、そこにさまざまな分断や対立、排除や破壊があることはすぐに分かります。虚偽が支配するところでは、純真さや熱心、また嬉しさは期待できそうにありません。教会が自らの使命を果たそうとするなら、そうした世のありさまと同じ姿になることはできません。この世の論理を教会に逆輸入するわけにはいかないのです。むしろ私たちは、祭儀主義的というか日曜クリスチャン的な生き方を逃れつつ、共同体の内的多様性を身体的な統合性に結び合わせつつ、喜びに満ちて互いに仕えながら「神の意志」をともに問うという生き方を、この世のど真ん中で実践したい――それが、私たちのなすべき礼拝なのだと思います。