2010.12.26

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「希望の光」

村椿嘉信

イザヤ書43,16-20; ルカによる福音書2,4-14

テキスト(旧約):イザヤ書43章16−20節

主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。 初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。 わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。 荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

テキスト(新約):ルカによる福音書2章8−14節

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ」。


クリスマスの祝い方:

 皆さんの中に、「今日は、クリスマス礼拝に参加しよう」と考えて、教会に来られた方がおられるでしょうか。もし、そう考えられた方がいたとしても、それはごく少数の方々ではないかと思います。

 私たちは先週の日曜日にすでにクリスマス礼拝を守り、午後には祝会を開き、24日には聖夜のキャンドルサービスや、キャロリングを行いました。しかも今日の週報には、「降誕後第1主日」と書かれています。どうしても「クリスマスは終わった」という気にさせられてしまいます。

 しかし西欧では、12月26日というのは、まだまだクリスマスの真っ最中です。

 私はドイツで、何度かクリスマスを過ごしたことがありますが、24日の午後、25日、26日は、商店がお休みになります。教会では、クリスマス礼拝が、24日の夕方から夜遅くまで、特に都市部では、何回か行われ、25日、26日にもクリスマス礼拝が守られます。この時期は、入れ替わり立ち替わり、多くの人々が教会を訪れます。

 クリスマスの礼拝は3日間にわたって開かれ、クリスマスの期間が終わるのは、1月6日のエピファニーと言われています。エピファニーという言葉は、「顕現節」とか、「公現節」とか訳されます。東方の3人の占星術の博士が、幼子イエスに礼拝し、捧げ物をした日とされています。私が3年間、滞在したドイツのケルンという町では、1月8日から10日頃に、クリスマスツリーのもみの木の回収が行われ、市の清掃局がまるで粗大ゴミを扱うように町中のクリスマスツリーを回収してまわります。この光景を見ると、ああやっとクリスマスが終わったと実感がわいてきます。

 ドイツのクリスマスについては、またお話する機会があると思います。私がドイツのクリスマスの話をするのは、それからがクリスマスの正しい祝い方だと考えるからではありません。ドイツではどうしてこのようにクリスマスが祝われるようになったかを探ることによって、私たちは、私たちになりに、ふさわしい形を求めて、さまざま工夫を工夫をこらすことができるのではないかと考えてのことです。 世界の各地で、さまざまな歴史的・文化的背景の中で、クリスマスが祝われています。それをお互いに学び合いながら、私たちは私たちのあり方を求めていくことが大切なことではないかと思います。

民全体に与えられる喜び:

 クリスマスは、誰のためのお祝いの時なのでしょうか。それは全世界の人々、全人類のためのお祝いの時なのだと言えます。

 夜通し、眠らずに羊の群れの番をしていた羊飼いに現れた天使は、まず「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と語りました。そしてさらに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と語りました。 最後に「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と語りました。

 クリスマスは、全世界の人々のためのお祝いの時ですが、実際にイエスの誕生を祝ったのは、「あなたがた」つまり「夜通し、眠らずに羊の群の番をしていた羊飼い」だったのです。

 「民全体」とは、どの人たちのことなのでしょうか。「民」はここでは単数形で書かれていますが、この言葉を広くとるなら、どの民族に属する人間であれ、神に造られ、いのちを与えられた人間のすべてと理解できます。天使の告げた喜びは、すべての民、全世界の人々に与えられる喜びです。旧約聖書は、さまざまな民族の違いを認めつつも、またイスラエルの民の独自性を強調しつつも、すべての人間がアダムの子孫であり、同じひとつの神の民に属すると指摘しています。イエス・キリストは、イスラエルの民のための救い主であるばかりでなく、地球上のすべての人間の救い主です。だからこそ、キリスト教は、当時のユダヤ人ばかりでなく、国境を越えて、ユダヤ人たちから異教徒と見なされていた人たちにまで伝えられたのです。 しかし民全体という表現が、世界中の人たちを意味すると考えられるにしても、ルカによる福音書の先ほどお読みしました部分では「イスラエルの民のすべて」と理解したほうがいいと思われます。実際に、イエス・キリストは、ユダヤ人として生れ、キリスト教はまずユダヤ人に伝えられたのですから、この箇所は、幼な子イエスの誕生が、まず、ユダヤ人に伝えらるべきことがらであると伝えていると理解できます。

 クリスマスの喜びは、まずは「ユダヤ人というひとつの民族の全体に与えられるもの」だと主の天使は告げようとしたのだと言えます。

 しかしそう解釈したとしても、繰り返しになりますが、この喜びがすべての人たちのものであることには変わりがありません。つまりクリスマスの喜びは、まずはイスラエルの民に伝えられたのです。しかしそれは、やがてその喜びが世界中の人たちに伝えられるためだったのです。

 さてそれにも関わらず、イスラエルの民の代表者がイエスの誕生を祝いにきたわけでも、ユダヤ人の中の多くの人たちがイエスの誕生を喜んだのでもありませんでした。

 「イスラエルの民」の中には、当然、ベツレヘムの人たちも含まれています。しかしベツレヘムの住人が誕生を祝いに来たのではありませんでした。ベツレヘムは、マリヤとヨセフにとって、「自分たちの町」だったのです。彼らは、ダビデの町ベツレヘムへと帰って来たのです。しかし宿屋には泊まるところがありませんでした。それだけでなく、マリアが身重であるにもかかわらず、誰も手助けしてくれませんでした。その結果、幼な子が誕生したという喜びは、ベツレヘムの人たちに伝わらず、実際に町を離れて、夜、眠らずに羊の番をしていた羊飼いに告げられることになりました。

 クリスマスのできごとは、「すべての人に与えられるべき喜び」であるにもかかわず、イスラエルの民も、エルサレムの指導者たちも、ベツレヘムの住民も、みなそれを喜びとはしませんでした。

 さらに当時のイスラエルは、ローマ帝国の属国となっていましたが、ローマ帝国内の誰もが、イエスの誕生を自分たちの喜びとは受けとめませんでした。ベツレヘム近郊で羊の群の番をしていた羊飼い以外の人たちで、イエスの誕生を祝いに来たのは、ローマ帝国内のしかるべき人物ではなく、そのローマ帝国の東の防衛戦をたえず脅かし続けた東方地帯から来た占星術の博士たちだったのです。

 聖書はこのように、クリスマスの喜びは民全体に与えられるよろこびなのに、それが実際に伝えられ、喜びにあずかることができたのは、あなたがた羊飼いだけであった、あるいは東方から来た占星術の学者を含めてごく限られた人たちであったと伝えています。‥‥これが最初のクリスマスの光景でした。

あなたがたに告げられたことは、民全体にかかわること:

 クリスマスの喜びは、「主イエスよ来てください」と願い求める人たちにもたらされる喜びです。神は、み心に適った人々に平和を与えてくれます。私たちが心から平和を求め、神の導きに従いながら、神の力にを受けて歩もうとするところに、平和が訪れます。私たちは、自分の力を頼りに平和を求めるようになると、より大きな力に期待し、自分が権力をふるったり、人々を支配するようになります。自分の考え通りに世界中の人々が行動してくれれば、平和が実現するのに‥‥と思い違いをするようになります。そしてついに、武力によって平和を達成したり、権力によって平和を維持すべきだと考えるようになります。しかしクリスマスの喜びは、人間の力を、権力を、暴力を頼りにせず、愛によってともにいきる交わりを生みだそうとする人々の中に与えられます。人間の力を頼りにして生きるのではなく、神の知恵、神の力によって生きることを望む人たちのただ中に、主イエスは来られ、ともに歩んでくれます。私たちがともに歩むときに、平和が訪れます。そういう平和な交わりの中に、クリスマスの喜びはもたらされます。

 でもクリスマスは、私たちだけが招かれ、私たちだけが祝えばいいものではありません。イエスは、私たちだけのために生まれたのではありません。 私たちは、家族、友人や知人、同級生、同僚、地域の住民‥‥といったさまざまな人たちとともに歩んでいますが、クリスマスはその人たちにも喜びを与えるできごとです。

 クリスマスの喜びは、「私」の喜びであるけれども、「私」だけの喜びではありません。 クリスマスの喜びは、「私たち」の喜びであるけれども、「私たち」だけの喜びではない、 クリスマスの喜びは、「あなた」に与えられる喜びであり、「あなた方」に与えられる喜びであり、「私たちの周囲にいるさまざまな人たち」に与えられる喜びであり、「この世で自分の生き方に満足している人たちにも、満足していない人たち」にも、ともに与えられるよろこびであり、「すべての人たち」のための喜びです。

 どうしたらクリスマスのできごとがすべての人たちに与えられる喜びなのだということを伝えることができるのでしょうか。どうしたらクリスマスを私たちの周囲にいるさまざまな人たちとともに祝うことができるようになるのでしょうか。 クリスマスは、あなたに与えられる喜びなのだから、いっしょに教会に行きましょうと私たちが教会に誘っても、相手は、それはあなたの信仰でしょう。それを押しつけないでください。人はそれぞれ生き方があるのだから、認めてください‥‥と言われるかもしれません。 何度も同じことを繰り返し語ろうとすると、うるさがられてしまうかもしれません。

 そこで話が終わりになってしまう場合も、実際にあると思います。しかしそこで話しを終わりにしてしまわずに、そこにとどまって、相手と向き合い、相手を受け入れ、クリスマスのできごとが、その相手にどのような喜びをもたらすのかをともに考えてみることが大切なことではないかと思います。

 自分の考えを押しつけるのではなく、自分にとってクリスマスがどのような喜びなのかを確認しながら、自分とは異なる存在である相手にとってクリスマスがどのような喜びなのかを考えるということです。神がその人を見守っていてくれるのです。イエスがその人を赦し、その人とともに歩もうとしているのです。そのことがどんなに大きな喜びかを、相手に向き合い、相手とともに考えることが大切です。

 現代社会においては、さまざまな情報があふれており、言葉がとても軽く飛び交わされています。「喜び」、「平和」、「愛」‥‥というような言葉が日常生活の中に氾濫しています。私たちが聖書の「愛」とはこういうものだと語ろうとしても、相手はすぐには理解してくれません。 でも神は私たちを愛し、私たちとともに歩んでいます。神は、私たちのためにイエスを遣わし、私たちはイエスとともに歩むことができます。そのイエスは、人間を愛し、十字架にかけられても人間を愛し通そうとした方でした。そのイエスとともに歩むことによって、聖書の愛という言葉の重みがどれほどのものであるかを理解できるようになります。

 イエスが私たちを受け入れてくれたように、私たちもともに受け入れ合い、ともに歩む中で、聖書の言葉を具体的にそれぞれの生活の場で理解できるようになり、またそれをともに語り合うことができるようになります。

 クリスマスは、幼な子イエスが誕生した時に、その場にいた人たちに、つまり羊飼いや東方の博士たちに喜びがみたされたという過去のできごとを思い起こす日でもあります。と同時に、民のすべてが、すべての人たちが、ともに主イエスをはさんで交わり築き、ともに喜びに満たされる時を待ち望む希望の日でもあります。

 私たちの世界にすでに輝いている光は、すべての人を照らそうと、暗い中でもなおも輝こうとしています。いのちあるあらゆるものは、この光に照らしだされる以外にないのです。すべてのものを照らしだそうとして輝いている光が、人間の闇の力を越えて存在しているのだということを私たちは覚えたいと思います。

 クリスマスにもとされた光は、闇の中で他と無関係に、孤立して、ひっそりと輝いているのではありません。その光は、触れば、熱くてやけどをしてしまうようなものです。その光は、あらゆるものを暖かくし、私たちの心を燃え立たせ、私たちを平和へと、ともに生きる交わりへと向かわせます。その光は、希望の光です。その光は、やがて先細って、燃え尽きてしまう光でなく、これから何かを生みだし、引き起こす光です。私たちはイエスが私たちの間で生まれたというクリスマスのできごとを思い起こしながら、新しい時を、希望をもって待ち望む者となりましょう。

神さま、
すべての人を照らすまことの光があって、この世に来られました。
それはすべての人たちに喜びをもたらすものでした。
しかしそのことを知り、その喜びにあずかろうとしたのは、わずかな人たちにすぎませんでした。
クリスマスのできごとを、私たちの周囲にいるさまざまな人たちとともに、
いや全世界の人たちとともに喜ぶ祝うことができますように。
そのためにも、私たちがイエスとともにさらに喜びをもって歩むことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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