I
12月24日はキリスト教の暦で「聖夜」と呼ばれ、今夜、世界中の教会でイエス・キリストの降誕が祝われます。
他方、私たちの国のクリスマスは、親しい人のあいだでプレゼントを交換したり、パーティを開いたりするお祭りです。内容的には、キリスト教信仰とあまり関係がありません。ヨーロッパではこの時期に多くの人が故郷に帰省し、ちょうど日本のお正月のように家族でお祝いをするため街中は閑散としていますが、日本の繁華街はとても賑やかですね。とくに今夜のレストランやホテルは、きっと予約でいっぱいです。子どもたちの中には、クリスマスはサンタクロースのお祭りだと思っている人がいるかもしれません。聖夜に教会の前を通りかかった人が礼拝の看板を見て、「へぇ、教会でもクリスマスをするんですか?」と問うた、というジョークもあるほどです。
いったいクリスマス、キリストの誕生とは、どのような意味のできごとなのでしょうか。マタイ福音書の物語を手がかりに考えてみましょう。
II
この物語の主題は「王の誕生」です。イエス・キリストが「ユダヤ人の王」であると言われます。そしてこの王の誕生をめぐって、二つの集団がまったく対照的な反応を示します。
一方には、東の方から来たという「占星術の学者たち」がいます。彼らは外国人です。その彼らが遠くから旅をして、赤ん坊のイエスを探し当て、宝物を捧げて礼拝することで、この子に対して大きな敬意を表します。
他方には、ヘロデというユダヤの王と、彼のとりまきである民の祭司長や律法学者たち、さらにエルサレム住民がいます。彼らは皆、新しい王の誕生という知らせに激しく動揺しました。少し先の文脈を読むと、ヘロデ王はイエスが生まれた村の男の赤ん坊を皆殺しにするために軍隊を派遣しています。
つまりこの物語は、ユダヤ人の王であるイエスの誕生が、二つの対照的な反応を、すなわち一部の外国人には喜びと崇拝を、他方でエルサレムのユダヤ人には狼狽と憎悪を引き起こしたと語るのです。するとクリスマスは、ただ楽しくてロマンティックなだけの祝日ではありません。それは高度に政治的な側面を含み、立場や理解の違いによっては鋭い対立すら引き起こしかねない、ほとんど「血なまぐさい」できごとです。この違いは、何に由来するのでしょうか。
III
物語に、「星」が登場することに注目しましょう。昔からいろいろな人たちが、イエス誕生前後に起こった天文学上の目だった現象について、どのような証言が当時の文献に残されているかを調べてきました。いくつかそれらしい候補があります。
しかし福音書が描く「星」はたんなる天文現象ではありません。この星は東方に上り、占星術の学者たちをエルサレムに向けて旅立たせるきっかけとなり、さらにエルサレムからベツレヘムへと(北から南へと)彼らを導き、ついに幼子イエスのいる家の上に止まりました。これは言うなれば奇跡の星であり、その役割は学者たちをキリストのもとに導くことにあります。
古代には、人はそれぞれ自分の星をもっており、重要な人々はより明るい星、その他の人々は暗く輝く星をもっていて、その星が誕生とともに昇り、死とともに消滅するという民間信仰があったそうです。そして重要人物が誕生する場合、もちろんそれは現在の支配体制に〈権力の交代〉をもたらす可能性がありました。王ヘロデが動揺したのも、このことによります。
少し時代は下りますが、ローマ皇帝ネロについて、歴史家スエトニウスが次のようなエピソードを伝えています。
最高権力者の没落を予告すると民衆の間で信じられていた彗星が、毎晩立てつづけに現れ始めた。このことをネロは憂慮して、占星術師バルビルスから教わったとおり、つまり東方の王たちはこのような凶兆をそらそうとするときはいつも、誰か他の名士を犠牲とすることによって、凶兆を自分の頭からその指導的な貴族の頭へ追い払うのが常であることを知り、極めて高貴な人たちをみんな絶やそうと決心した。(『ローマ皇帝伝』「ネロ」36、国原吉之助・訳)
この後、陰謀に加担したとネロが判断した貴族たち、およびその子どもたちの追放と殺害の報告が続きます。マタイ福音書が描くヘロデ王の姿にそっくりですね。
IV
では、占星術の学者たちは、なぜイエスの誕生を喜ぶことができたのでしょうか。彼らは外国人なので、ユダヤの国内政治に直接的な利害関係をもたなかったからでしょうか。では、なぜ関係のない外国の「新しい王」を、わざわざ拝みに来たのでしょうか。今日の聖書箇所だけではよく分かりません。――しかし、すでに異邦人伝道を実践していたマタイ福音書の著者と読者たちは、こう考えたかもしれません。東方の学者たちは、この新しい王イエスが真の世界支配者であること、つまり外国人である自分たちにとっても王であることを知っていたのだと。
つまりクリスマスを喜ぶことができるのは、今の支配が終わって新しい支配が来ることを歓迎する用意のある人たち、もっと言えば、権力の座から自分が降りる覚悟のある人たちです。
後のユダヤ戦争(紀元66-70年)の時期、東方世界に「絶えることなく、次のような噂が伝わっていた」と同じスエトニウスが伝えています。すなわち「この頃、ユダヤから出発した者が、天下をとることに運命で定まっている」(『ローマ皇帝伝』「ウェスパシアヌス」4)。ユダヤ人はこれを自分たちのことだと解釈して、対ローマ武装闘争を煽りました。他方でユダヤ戦争に勝利したローマの軍人ウェスパシアヌスとその息子ティトスは、それは自分たちのことだと解釈して、自らの勝利に神々しいオーラを与えるためのプロパガンダに利用したと思われます。じっさいウェスパシアヌスとティトスの父子は、やがて皇帝になります。
マタイ福音書の読者たちは、そのことを知っているでしょう。そして同時に、イエスがローマ皇帝たちとはまったく違った意味で真の王であり、世界の支配者であることも。
V
占星術の学者たちはベツレヘム村のある家の上に星が輝くのを見て、「喜びに溢れた」とあります。ベツレヘムは、その子孫からメシアが生まれると信じられた古の大王ダビデの出身地です。その星が指し示す家に、「幼子は母マリアとともにおられた」。――異国の学者たち以外に、この母子を訪問し、子どもの誕生を祝った人がいた形跡はありません。彼ら以外に「星」は見えなかったのでしょうか。私たちに今夜、星は見えるでしょうか。
この学者たちに特徴的なのは、他者に対して開かれた態度です。彼らは占星術という普遍的な知識に対して開かれています。自分の国のことだけでなく、ユダヤという外国のできごとも彼らの関心事です。さらにこの人たちは、王という絶対権力者の前でも臆するところがありません。彼らは王の前で、平気で新しい支配者の誕生について語ります。また権力なき人々にも彼らは開かれています。すなわち見ず知らずの外国人の母子に対して、最大限の敬意を表現しています。そして何より彼らは、神に対して開かれています。天使のお告げに従うことができるのです。
このような態度は、学者たちの職業上の性質ないし習性に由来するのでしょうか。いいえ、むしろ神が新しい平和の時代のしるしとして、小さな赤ん坊の姿でこの世界に到来するというできごとそのものが、この態度を作り出したのだと思います。そしてこの物語は、そうした開かれた態度で生きようとする人々を、ずっと生み出してきました。私たちもそうありたいと願います。
皆さんお一人ひとりに、メリー・クリスマス!