2010.12.19

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「人間を照らす光」

村椿嘉信

創世記1,1-5; ヨハネによる福音書3,16-21

テキスト(旧約):創世記1,1-5

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。
 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

テキスト(新約):ヨハネによる福音書3,16-21

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
 御子を信じる者は裁かれない。
 信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

<光>の到来:

 イエスは、ヨハネによる福音書8章12節によると、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。私たちはこのクリスマスに、「光」としてこの世に生まれた主イエスの誕生を祝おうとしています。

 「光」とは、どのようなものなのでしょうか。

 「光」は、私たちの歩むべき方向を明らかにしてくれます。灯台の光は、船の進行を導きます。灯台の光のように、イエスは、私たち一人ひとりが歩んでいくべき道をそれぞれに明らかにし、私たちの目印となってくれます。信号機のように、ある場合には「危険だから停止しなさい」、ある場合には「注意しなさい」、ある場合には「だいじょうぶだから、進みなさい」とシグナルを送ってくれます。

 「光」は、すべてのものを明るみに出します。夜が訪れ、あたりが暗くなっても、灯りをつければ、何がどこにあるかわかるようになります。照明器具のよううに、イエスは、私たちの歩んでいる世界を明らかにしします。この光によって、私たちは、自分自身の姿をとらえることができるようになります。

 私たちは、ごうまんになって、自分を過大評価し、自分だけが偉い人物であるかのように振る舞い、人の助けを必要とせず自分ひとりの力で生きようと考えることがあります。そうかと思うと、逆に、自分を過小評価し、自分に絶望し、生きていても仕方がないと思うほどに落ち込むことがあります。しかし自分を過大に評価して傲慢になる必要も、過小に評価して落ち込む必要もありません。主イエスに導かれて、私たちは、自分のありのまま姿を見つめ、自分の課題が何であるかを知ることができるようになります。

 「光」は、私たちに生きる力を与えてくれます。太陽が私たちにもたらすものは、明るさだけではなく、エネルギーでもあります。イエスは、私たちに生きる力、エネルギーを与えてくれます。そして私たちの心にあたたかさを与えてくれます。「光」は、まさに「いのちをもたらす光」です。イエスこそ、地上で、神が与えてくださるいのちの力に生きた方です。イエスこそ、私たちに生きることを教え、生きる力を与えてくださる方です。

<光>と<闇>の対決?:

 さて、聖書には、「光」に対立するものとして、「闇」についても語られています。「光」と「闇」とはどのような関係にあるのでしょうか。

 すぐに思い浮かぶのは、「光」と「闇」が対立関係にあり、両者が競い合っているという考えです。これは「二元論的な考え方」と名づけることができます。しかし聖書の考え方とは異なります。今日は、まず、この「二元論的な考え方」とはどのようなものかを説明し、そのあとで、聖書ではどうなのかと考えてみたいと思います。

 「二元論的な考え方」は、旧約聖書や新約聖書が書かれた当時のイスラエルを取り巻く古代社会の中で、かなり一般的な考え方でした。「二元論」とは、この世に存在するもの、あるいはこの世で起こるできごとについて説明する際に、二つの対立する原理や根拠を用いる考え方のことです。

 この世に存在するあらゆるものが、「精神」と「物質」という2つのもので構成されると考えるのは、「二元論」の典型的な考え方といえます。この考え方によれば、人間は、「肉体」と「魂」の2つのものから構成されているととらえられることになります。しかし人間は、からだ(=身体)とこころ(=精神)をもってひとりの人間として生きています。からだとこころは密接に結びついています。聖書は、人間を「からだ」と「こころ」をもった一人ひとりの存在として描いています。

 その意味で、キリスト教は、心の面だけを扱う宗教ではありません。教会は、からだとこころを持っている人間と人間とが、ともに生きる場です。心のサポートだけでなく、物質的な面でのサポートも大切です。ただ現代の日本においては、物質的な貧困を強調するよりも、精神面での貧困のほうが大きな問題となっています。そういう状況の中で、教会は、「物質的な豊かさだけでは人間はしあわせになれませんよ。こころの問題を忘れてはいけませんよ」と「こころ」の問題を強調しなければならない状況にあるのだと私は理解しています。

 宗教の中にも「二元論的な考え方」に立つものが存在します。古代のゾロアスター教、あるいはゾロアスター教の教えを受けて発展したといわれるマニ教、またグノーシス主義と呼ばれる宗教思想など典型的な「二元論」だといえます。それらの宗教においては、人間を「二元論的」にとらえるだけでなく、世界を、「善の神」と、「悪の神」の争いの場として、「善の原理」と、「悪の原理」の闘争の場としてとらえます。つまり、悪の神が、あるいは悪魔が、力を奮うようになると、悪の神に従う人間が多くなり、世の中は暗くなり、人間は戦争や犯罪を繰り返し、人間の心は冷えていくのです。「光」と「闇」というイメージは、このような「二元論」の中で、よく使われます。

 このように「光」の神、昼をつかさどる神のほかに、「闇」の神、夜の権力者がいて、闇の力が人間の中に入り込み、その人をそそのかし、悪い行いに導くという考え方は、わかりやすく、納得してしまう人も多いのかもしれません。しかし二つの点で間違っています。まず第1に、「闇」の神は存在しません。また第2に、悪を行ったり、犯罪を犯すのは、人間の責任であり、その責任を、人間を越える神々の責任に転嫁することはできません。だから私たちは、「自分が間違ったことをしたのは、神のせいなのです」と言い逃れはできません。闇の神は存在しないし、聖書の神は、人間を悪に導く方ではないからです。

圧倒的な<光>の優位:

 さてそれでは、聖書では、「光」と「闇」という言葉はどのように使われているのでしょう。

 聖書においては、力を持って存在するのは「光」だけです。「闇の力」が存在するのではありません。「闇」は、何かが力を奮うから存在するようになるのではなく、「光」が存在しないときに生じる現象にすぎません。

 このことは、自然界のできごととも一致します。地上に太陽のエネルギーがさんさんと降り注ぐと、あたりは明るくなり、昼となります。では夜は、何かの闇のエネルギーが降り注いで暗くなるのかというと、そうではなく、太陽の光が届かなくなるから、暗くなるだけです。「光が照り輝いているか、いないか」の違いが「昼」と「夜」の違いをつくりだすのであって、「闇の力」そのものが存在するわけではありません。

 強い光を遮ると、陰ができます。しかしそもそも光のないところで、陰をつくりだすことはできません。

 でも新約聖書、旧約聖書の書かれた時代の人々は、自然現象から、このことを学んだのではありません。神とかかわっていく中で、神は「善の神」であり、その「善の神」と並んで「悪の神」が存在するのではないと学び、「二元論」を克服したのだと考えられます。

 創世記の冒頭には、神が「光」をつくったのだとしるされています

 創世記の1章3節から5節に、こう書かれています。一部省略して読みます。

 神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。‥‥神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。

 神が創造したのは、「光」だけです。その結果、「光輝く部分」と「輝かない部分」が生じたのです。それを神は区別し、光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ‥‥と書かれています。

 それでは、光によって輝くことのない闇は、どこから生じたのでしょうか。創世記の1章2節の前半に、こう書かれています。

 地は混沌であって、闇が深淵の面(=おもて)にあった。

 ここに描かれていることを頭で思い描こうとすると、なかなかイメージがわかない箇所なのですが、前後関係で言おうとしていることは単純なことではないかと思います。

 すべてが混沌としていた。つまり、形あるもの、意味あるものはなかった。すべてが闇の中にあった。深い淵の奥底が闇に包まれているのはもちろん、淵のおもてまで闇だった。そこに神が光をもたらしたということです。

 神はこの世界に、「光」をもたらしました。「闇」は神がもたらしたものではありせん。また闇をもたらす別の「悪の神」がいるわけでもありません。光をさえぎるものがあるから、この地上にはどうしても闇が生じてしまいます。光をさえぎるもの、それは、光をさえぎろうとする私たち人間の意志です。そしてそれを聖書は「罪」と呼んでいます。

イエスはこの<世>を照らすためにきた:

 ヨハネは、さきほどお読みしましたヨハネによる福音書3章16節以下で、人間が罪人であることを前提にして、神はその人間を愛し、神の独り子であるイエス・キリストをこの世に「お与えになった」としるしています。それは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちをエルためでした。それはまさに、「世を救うため」でした。

<世>はもともと<闇>であり、そのことが裁き:

 19節、20節にこうあります。

 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。そのことが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出るのを恐れて、光のほうにこないからである。

 ここにある「光」とは、主イエスのことです。

 主イエスがこの世に来られた。主イエスがこの世に誕生し、この世で歩まれました。

 主イエスは、「世の光」として、すべての人間に救いをもたらそうとしました。

 主イエスは、人間に罰を負わせるためにこの世で活動したのではありません。けれども人間の側が、光より闇のほうを好み、光を避けてしまっている。そのことが、その人にとって裁きとなっているのです。つまり人間のほうが、救いにあずかろうとはせず、救いから遠ざかり、みずから滅びに至る道を選択しているのです。ヨハネは、それが私たち自身の現実の姿なのだと指摘しています。

 それでは、どうして私たち人間は光を避けようとするのでしょうか。この世には、輝くものがたくさんあり、「何がほんものか」見分けがつかないのかもしれません。光を求めて、教会に来たけれども、聖書の言葉を理解しないまま、教会というところは自分に合わないと考え、去っていった人もいるかもしれません。そもそも光を憎む人もいるかもしれません。光より悪に魅力を感じる人もいるかもしれません。自分の行いが明るみに出るのを恐れ、光を避けている人もいるかもしれません。

 しかし、そういう人たちを含めて、すべての人たちに救いをもたらそうとして神は、私たちに働きかけています。クリスマスのできごとは、私たちすべての人間に救いをもたらすできごとです。

光輝くことを追い求めて、ともに生きる:

 このクリスマスに、「私だけの光」ではなく、「私たちだけの光」でもなく、「私」も、「私たち」も含むこの世のすべての人たちを照す光が与えられたということを、感謝しましょう。

 冒頭の部分でも述べましたように、

 光は、さまざまなシグナルを与えてくれます。私たちは、迷わずに、それぞれの道を歩むことがでいます。

 光は、私たちの世界を、また自分自身を明るくしてくれます。私たちは、希望をもって歩むことができます。私たちは、自分自身を過大視せず、また過小評価することもせず、ありのままに歩むことができます。

 光は私たちに暖かさを与えてくれます。私たちに生きるエネルギーを与え、私たちの心にあたたかさをもたらしてくれます。

 その光の中を、さらに歩み続ける決意を新たにしましょう。

 そして私たちに「光」をもたらしてくれた神に感謝しましょう。

 私たちのために「世の光」として誕生されたイエスのご降誕を、心から祝う者となりましょう。

主なる神さま、

あなたは私たちのために「光」を創造し、この世を愛し、独り子である主イエス・キリストを遣わしてくださいました。こころから感謝します。

あなたが私たちのためにもたらしてくださったクリスマスのできごとは、

私たち自身の喜びであると同時に、

全世界の人たちにとっての喜びです。

あなたはこの世を生かそうとして、私たちに働きかけていてくださいます。

どの人にも命を与え生かそうとして、私たちに働きかけていてくださいます。

主イエスの言葉に学び、主イエスの活動にならって、私たちも歩む歩むことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。

アーメン



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