2010.11.14

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「見えない事実」

村椿 嘉信

詩編23,1-6; ヘブライ人への手紙11,1-3

 

テキスト:

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 

人間=<間に生きる人>:

 日本語で「人」という言葉は、「猿」などの生き物と同じように、動物のひとつ、生物学上のひとつの種としての存在を表すものとして用いられています。これに対して「人間」という言葉は、「人」の関係性、あるいは社会性を強調するために使われることになったと言われています。

 もちろん「猿」などの動物の世界にも社会性があることが知られていますけれども、人間とは比べものになりません。古代哲学者のアリストテレスは、人間を指して「社会的動物」と呼びましたが、人間が社会の中で生きる存在であることは、古くから認識されていたことでした。

 しかも日本語の「人間」は、「人」と「間」という文字から成り立っていますが、まさに「人間」とは、「間に生きる存在」であると言えます。

 さて、「人間」が「間に生きる存在」であるとするなら、それはどういう意味なのでしょうか。「間」には、日本語の「間」には、第1に、ふたつのものに挟まれている部分‥‥という意味があります。たとえば「2時と3時の間」とか、「東京と大阪の間」と表現することができます。第2に、一続きの時間あるいは空間‥‥という意味があります。たとえば「しばらくの間」とか、「本の間」という表現があります。辞書には、さらにいろいろな用例が書かれていますが、人間はいったいどのような「間」に生きる存在なのでしょうか。

 

人間=<他者との間に生きる存在>

 私は、2つのことが重要なのではないかと思います。第1は、人間は、他の存在との間に生きる者だということです。

 私たちは、決してひとりで生きているのではありません。多くの人たちに囲まれて生きています。しかし多くの人たちに囲まれて生きるとは、たとえば新宿駅に人混みの中で多くの人たちに否が応でも囲まれてしまうように、大勢の人たちがいて、その中にただ自分もいる‥‥ということを意味するのではありません。多くの人たちに囲まれていても、私たちは自分が孤独だと感じることがあるのではないでしょうか。

多くの人たちに囲まれて生きるとは、さまざまな人たちと関係を持って生きるということです。私たち人間にとって大切なことは、自分ひとりがどう生きるかではなく、さまざまな人たちとの間で、関係を築き、それを育て、またある場合にはそれをどのように深めていくかということです。

その場合に、関係という限り相手がいることですから、自分ひとりの思いどおりにはなりません。相手とどのような関係を築くのか、自分の思いをどのように相手に伝え、相手の思いをどのように聞き、そこから何を生み出すかが、私たちにとって大きな問題になります。

ところで私たちが関係を築いて歩む相手というのは、人間だけではありません。私たちは、そもそも神様との関係の中に生きています。

聖書には、神様が、天と地とを創造されたのだとしるされています。神様が、人間を造り、私たちに<いのち>を与えてくださったのです。しかも神様が、私たちを祝福し、私たちを守り、導き、私たちとともにいてくださるのです。だから私たちは、決して、ひとりで歩む者なのでなく、私たちは「神との間」に生きる者なのです。このように、人間とは、第1に、他者との間に生きる者です。

 

人間=<時の間に生きる存在>

 そしてさらに第2に、人間は、時間の中に生きる者、「過去」と「未来」との間に挟まれた「現在」に生きる者でもあります。私たちは決して、何も考えずに、現在という時を、自然に備わった本能のおもむくままに生きているのではありません。私たちは、過去を踏まえ、過去に学び、過去を生かしながら、現在を生きています。しかし過去に縛られて現在を生きなければならない‥‥ということではありません。私たちは、未来を目指し、未来に希望を抱きながら、つまり未来に新しい可能性を見いだしながら、今を生きています。私たち人間にとって大切なことは、いかに過去を踏まえ、何を過去から学ぶのか、そしてその学んだものをいかに未来に生かし、いかに未来に新しい可能性を追い求めるかということです。

 その時に、私たちが忘れてはならないことは、やはり私たち人間を創造し、私たち一人ひとりに<いのち>を与えてくださった神様がおられることです。そしてその神様が、私たちを「神の国」へと招いていてくださることです。その神様の前で、私たちは、<いのち>が与えられたことを感謝をもって覚え、その<いのち>を生かし、私たち一人ひとりに神様から与えられているものを生かしながら、<神の国>へと希望を持って前進することができるのです。

 

見えないもの:

 さて、私たちは、神さまやさまざまな人たちと、あるいは過去や未来と、どのように関わりながら生きるべきなのでしょうか。このことを考えるときに重要なことは、そのような関わりというものは、目に見えないということです。その関わりは、目で見えないばかりでなく、手で触ることもできないし、耳で聞くこともできないし、鼻で嗅ぐことも、舌で味わうこともできないということです。私たちの五感で捕らえることのできるものは、今というこの時に実際に存在するものだけです。私たちは、聖書をさわったり、読んだり、誰かが聖書の言葉を読むのを聞くことはできます。でもそれだけでは、聖書を理解することにはなりませんし、まして神様との関係に生きることにはなりません。

 私たちは、神様を直接、自分の目で見ることはできません。人の心をのぞくことはできません。現在残っている遺跡や考古学的資料・文献は見ることはできますが、過去に生きていた人を見ることはできないし、また未来の可能性を見ることはできません。しかし神様との関係、他者との関係に生きることはできます。また、過去を踏まえ、未来に希望を抱き、来るべき将来に関わりを持ちながら生きることはできます。

 見えないものに関わりを持ちながら生きるといいうことは、私たち人間にとってとても大切なことです。でも私たちは、どのように見えないものに関わりを持つべきなのでしょうか。

 

見えないものとどう関わるのか:

 さてヘブライ人への手紙11章1節にはこう書かれています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。

 この言葉から、またこの前後の箇所から、私たちはさまざまなことを理解することができると思いますが、ここではいくつかの点を強調したいと思います。

 それは「見えない事実」が存在すること、そして「信仰」によってそれを確認できるということです。まず、空想や思いつきではなく、見えないけれど「事実」が存在し、それを確認できるということが大切なことです。それは「信仰」によって可能になります。

 ところで「信仰」という日本語の訳語は、「信じる」という字と、「仰ぐ」という字から成り立っています。「仰ぐ」のは、人間が神を仰ぐわけですから、「信仰」というと、人間の側からの神様への一方的な働きかけのことだと理解されてしまいます。私はいつもこの訳語にひっかかります。神を仰ぐということはそれじたいとても大切なことなのですが、「信仰」という訳語は、その「仰ぐ」という面ばかりが強調されてしまいます。

 しかし「信仰」は、人間の側からの神への一方的な働きかけによって可能になるのではありません。その点においては、「愛」とまったく同じです。神様が人間を愛してくれるから、人間は神様を愛すことができるようになります。それと同じように、神様が人間を信じ、人間をご自分の相手とみなし、神様が人間に働きかけてくださるから、私たち人間も神様を信じ、神様に仕えることができるようになります。

 神様は、私たち人間を信頼して、まず神様のほうから私たちに知恵や力を授けてくださるのです。その神様から授かった知恵や力を、神様の私たちに対する信頼に応えるために用いることができるのです。

 さて、そういう神様と人間の両方からの信頼関係の中で、つまり神様の働きかけに人間が応える場所で、私たちは見えない事実を確認することができるようになります。つまり3節にあるように、神様がこの世を創造されたこと、私たち人間を造り、私たちに<いのち>を授け、私たちを日々見守っていてくださるという事実を、確認することができるのです。

 

召天者記念礼拝に:

 さて私たちは、今、召天者記念礼拝をともに守っています。私たちが今ここで求められていることは、見えない事実を確認することです。

神のもとに召された人たちの中には、かつてこの教会に会員として所属していた人たちも、あるいはそうでない人たちも含まれますが、誰もが神様によって造られ、<いのち>を与えられ、神様に守られ、生かされながら、その生涯を歩み続ける者であったという事実には変わりがありません。私たちは、すでに亡くなった人たちを見ることはできません。でも、もはや見ることができなくなっても、それで関係が終わってしまうわけではありません。こういった見えない事実を確認することが大切なことです。

 人と人との関係は、目で見ることができなくても、存在し、残っていくものです。そしてその人とのさまざまな関わりは、過去のできごととなり、もはや見えないものとなっても、存在し続けます。

 私たちが神様の力に生きながら人と人との間で築き上げてきたものは、その相手がいなくなり、かつてと同じように築き上げることができなくなっても、別のかたちで受け継がれ、新しい実を生み出すようになります。かつて親しかった関係の中から学んだことは、消えて無くなってしまうのではなく、それを未来に生かすことができます。それは神様が蒔いた種が、かならず将来において実を結ぶからです。

 

 私たちは、今、天に召された人たちのことを思い起こしたいと思います。そしてその際に、「その召された人たち一人ひとりが、いかに自分ひとりの力で立派に生きたか」、ということよりも、「その人が、神様に<いのち>を与えられ、神さまに守られ、神さまの力のもとに生きた」ということ、そして「その召された人たち一人ひとりが、その神さまの働きかけにみずからも答えようとして、神様を愛し、人を愛しながら歩んだ」ことを思い起こしたいと思います。

 そして私たちは、天に召された人とともに歩んだ過去を踏まえ、過去から得たものを、さらに未来に生かすために努力し続けたいと思います。私たちは、もともと神様から与えられたバトン(リレー競争で、走者が手に持って走り、次の走者に渡すバトン)を、天に召された人たちから受け取り、それを未来に生きる人たちに手渡すことができるのです。

 

 かつて親しい人たちとの間で育んできた愛を、新しい世代の子どもや次の世代の孫たちとの間に生かすことができるかもしれません。あるいは家族や、教会の仲間、あるいはこの世で困難な状況に立たされている人たちの間で、過去のよいものが未来に受け継がれ、未来に生かされるようにと、心を込めて祈ることができるかもしれません。

 いずれにせよ、神様が始めたことは、人間の死によって終わりになるのではなく、それは何らかのかたちで未来へと引き継がれ、大きな収穫を実らせるまでになるのです。そのことを望み、その望みが達成されることを確信しながら、私たちは歩んでいきましょう。人間として、神様との関係の中に、そしてともに生きる人たちとの関係の中にしっかりと立ち、過去を踏まえ、過去のできごとに学びながら、未来に希望を持って生きる者となりましょう。

 

主なる神さま、
あなたが天と地のすべてのものを造られたこと、
あなたがわたしたちに<いのち>を与えてくださったこと、
あなたがわたしたちに<力>を与え、導いてくださっていることを覚え、
心から感謝します。
あなたの見守りのうちに、私たちがさまざまな人たちと関係を持ち、
ともに生きることができますように。
あなたがもたらしてくださった過去のよいものを、未来に生かすことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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