さきほどお読みしましたマタイによる福音書25章31節以下は、「主イエスに従う」ということがどういうことかを示す「たとえ話」のひとつです。実際に言葉どおりのことが起こるということではなく、「イエスのために何かをする」ということがどういうことかを明らかにしています。この箇所には「王」が登場しますが、「王」とは「イエス」のこと、「王に対して何かをすること」は「イエスに対して何かをすること」を意味すると考えられます。
この部分は、マタイによる福音書だけに書かれています。マタイによる福音書には、「山上の説教」を始めとして、いくつかのイエスの説教があります。その最後の部分が、さきほどお読みした箇所に当たります。おそらくマタイは、イエスの説教の結びとして、さらにはイエスの宣教や活動を述べる本論の最後の言葉として、この箇所をここに置いたのだと考えられます。イエスの説教、イエスの活動をふりかえりながら、マタイが最後に強調したかった内容が、ここに描かれています。
しかもこの箇所は、イエスのエルサレムでの十字架に至る一連の出来事が始まる直前です。そしてマタイがこの福音書を編集した時点では、マタイにとって、イエスが十字架に架けられたこと、そして弟子たちがイエスに最後まで従っていくことができなかったことは周知の事実でした。たとえばイエスの弟子ペトロが、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても。あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26,30)と誓ったにもかかわらず、イエスを「知らない」と言ってしまった(26,69以下)ことは、すでに知られていたことでした。
イエスに従おうとしても、誰も、十字架に架けられたイエスに最後までついていくことはできません。しかもそのイエスはもはやこの地上には、私たちの目の前にはおられません(福音書の中には、イエスが「天に昇られた」と書かれている箇所があります。マルコ16,19。ルカ24,51。なお使徒1,9も参照のこと)。
それでは、そのイエスのために、今、ここで、私たちにできることは何でしょうか。40節にこうあります。「わたし(=イエス)の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。つまり「最も小さい者の一人に対して何かをすること」が大切なことです。それこそが、「イエスに対して何かをすること」になるからです。
イエスはここでまさに、「わたしに対して何かをしたいと考えるなら、わたしに従おうとするなら、わたしの兄弟である最も小さい者に対して、何かをしなさい」と語っています。
マタイはこのことを強調することにより、私たちがそれぞれの場でイエスに従うことが可能だと、イエスに対して何かをすることが可能だと明らかにしています。
それでは「最も小さい者」とは誰のことなのでしょうか。ここには、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者」と書かれています。「わたしの兄弟」という言葉は、キリスト者のことであるとも考えられます。そしてもし「わたしの兄弟である」という言葉を「最も小さい者」を限定する言葉だと理解すると、「わたしの兄弟」、つまり「キリスト者」の中の「最も小さい者」を指すと考えられます。実際にそのように理解すべきだと主張する人たちもいます。しかしそのように理解するとこの部分は、「キリスト者どうしお互に助け合いなさい‥‥」という意味になってしまいます。
しかしイエスは、キリスト者であるか否かを問わず、この世で「最も小さい者」、「最も小さな権利しか認められていない人」、「小さな扱いしか受けていない人」、「社会的な弱者」のことを述べているのではないでしょうか。そしてそういう人たちこそが「わたしの兄弟」であると述べているのではないでしょうか。
どちらととらえるかによって、意味がまったく異なってきます。イエスは、山上の説教の中では、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5,44)と語っています。また「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」(マタイ5,47)と述べています。イエスは、「自分の兄弟姉妹、自分の同胞、自分の知り合い、自分に利益をもたらす人たちだけに挨拶するのではなく、そのような枠組みを乗り越えて、自分と直接的な関係のない人、自分に不利益をもたらすかもしれない人たちにも挨拶しなさい」と述べています。
もし相手が、家族の一員であるとか、仲間であるとかいう場合は、飢えたり、のどが渇いている場合に、助けるのは当然のことです。相手が、旅をしていたろ、裸でいたり、病気であったり、牢にいる場合に助けるのは、当たり前のことだと考えられます。現代は、そういう当然のことがなされていない時代であるともいえますが、イエスはただ当然のことをしなさいと言おうとしているだけではありません。
この部分の翻訳で、「旅をしていたときに宿を貸す」という箇所は、「よそ者を受け入れなさい」とも訳すことができます。イエスが言おうとしていることは、「キリスト者どうし助け合いなさい‥‥」という意味ではなく、「よそ者を受け入れなさい」、「キリスト者であろうとなかろうと、最も小さな者を受け入れ、その人とともに生きなさい‥‥」と理解すべきだと考えられます。
さて私たちキリスト者は、人権とか、平和とか、環境というような現代の社会で問題となっていることがらにどのように関わるべきなのでしょうか。私は、沖縄に28年間、滞在しましたけれども、キリスト者として何を為すべきかということは、ずっと考え続けてきたことでした。そしてその際に、第2次世界大戦を前にしてボンヘッファーが記した言葉が、私の指針となりました。そして沖縄でさまざまな問題に関われば関わるほど、この指針が大切なものに思えてきました。
ボンヘッファーは、ユダヤ人が差別され、迫害される状況の中で、教会がユダヤ人が直面している問題にどのように関わるべきかを考え、次のような3つの段階を考えました。
教会のとるべき行動:
(ボンヘッファー「ユダヤ人問題に対する教会」より、1933年)
第1は、簡単に言うと、国家に対して、問いを投げかけることです。事実を明らかにし、国家が国家にふさわしくふるまっているか、国家の責任を果たしているかと問題提起することです。これは、「声明文」とか、「抗議文」とか、「意見書」というかたちで公にすることができます。
第2は、国家の犠牲者に対して、奉仕することです。
第3は、国家の誤った動きに対して、それを阻止するために行動することです。ボンヘッファーはここで、決して、国家が必要ないとか、すべてが悪であるとか言っているのではなく、たとえばユダヤ人を絶滅させようという当時の国家の誤った動きを阻止するために、具体的な行動を起こさなければならないと述べています。この第3段階は、政治的行動であり、市民運動もこれに当たると考えられます。
この3つのうち、ボンヘッファーにとって決定的に重要なのは、第2の点です。「第1か、第3か」ではなく、また「第1から、すぐに第3へ」というのでもなく、「第2の点を中心に、第1や、第3の点を考える」という方向です。
第1、第3で述べられていることは、「教会が<国家>に対して何をするか」です。ところが第2で述べられていることは、「教会が<国家の犠牲者>に対して何をするか」ということです。国家の保護を受けられない人、国家から見捨てられた人、国家の政策によって犠牲となっている人というのは、国家の恩恵を受けている人たちと比べて、最も困難な状況に立たされている人と言えます。そういった人たちに、具体的にどう関わるかが、問われています。そして具体的に困難が状況に置かれている人たちの抱えている問題に関わり、その人たちとともに生きようとするところから、私たちは、声明文を出したり、いろいろな行動を起こすべきです。この姿勢は、社会の中で最も小さい者に対して何かをすることを求めたイエスの教えに通じるものです。
さて、さきほど私が沖縄に28年間いたという話をしましたが、沖縄というと、基地問題、とくに現時点では米軍普天間基地の辺野古での移設が大きな問題となっています。でも、沖縄で基地問題といっても辺野古の問題だけではなく、さまざまな問題があります。教会はそれらの問題とどのように関わるべきなのでしょうか。忘れてはならないのは、政治的に大きく取り上げられている問題と関わるという視点ではなく、そこに生きている人と関わるという視点を大切にし、その視点を見失わないことだと思います。教会生活を送る人であれ、地域の人であれ、そこで生きているさまざまな人たちとともに歩みながら、その人たちが直面している問題と関わるということが大切なことです。
私がこの夏まで関わっていた石川教会に、アスベストの被害者がいました。すでにアスベスト被害の典型的な症状といわれる「肺気腫」で亡くなりました。私が5年前に石川教会に赴任した時に、すでに入退院を繰り返しいました。アスベスト被害は、政府の対応の遅れから、今も、多くの人たちが不安にさらされています。アスベスト、つまり石綿は、断熱性、遮音性に優れ、1988年に禁止されるまで、建築資材として、学校の体育館や放送室などで大量に使われていました。アスベストを吸引しても、すぐに発病するわけではなく、何十年もたってから肺病を起こす人たちがいます。アスベスト被害だと気づかないまま、いのちを落とす人もたくさんいると言われています。諸外国に遅れ対応が遅れ、しかも現時点においても対応が十分になされているとは言えません。
アスベスト被害に苦しんでいた石川教会のひとりの信徒は、相談窓口が労働基準監督署にあると知り、そこを尋ねました。するとていねいに相談に乗ってくれたそうです。その信徒は、その窓口にいた人が何らかの対応をしてくれるはずだと、首を長くして待っていましたが、何の動きかけもありませんでした。何かおかしいと感じ、私もいっしょに労働基準監督署に行きました。すると窓口の担当者は、「相談は受けたが、また労災保険の対象になることもわかっていたが、本人が労災の手続きをすると申し出なかったため、必要な書類を渡さなかった‥‥」と言いました。私は、これはまさに「お役所仕事」だと思いました。本人は、そういう書類があることじたい知らなかったので、その書類を請求できるはずがないのです。本人は、そういう申請書が必要だということを含めて、いろいろ教えてもらおうと考え、窓口を訪ねたのに、肝心なことを教えてもらえなかったのです。
私は、それから東京や大阪で、アスベスト被害の問題と関わっている人たちのアドヴァイスを受けたり、弁護士と相談したり、この問題をマスコミを通して訴えたり、教会の間でも情報を伝えたり‥‥ということをしてきました。そのことを通して、沖縄の人たちが、戦後、関東や関西に出稼ぎに行って、学校や公共施設等の解体作業に関わり、アスベストによる被害を受けていたという実態が明らかになりました。また沖縄では、米軍施設にかなりの量のアスベストが使われていたことも明らかになりました。またアスベストによる被害者の救済のために地道に活動を続けている人たちがいて、その中にキリスト者もいることがわかりました。そのことを通してアスベスト被害の問題が、その問題だけでなく、基地問題をふくめて実にさまざまな問題につながっている、また人間のいのちを脅かすさまざまな問題が深いところでつながっているということを知りました。
石川教会のその信徒については、その後、補償金が降りることになりました。しかし実際にその決定通知書が届く前に、神のもとに召されました。とうとう間に合わず、私はとても残念が思いがしました。でも家族に対しては補償がなされ、沖縄県で補償が降りた第1号となりました。また本人は、元気だったころ、「自分のことが突破口となって多くの被害者が救済されるように」と望んでいましたが、それがかなえられることになりました。
私は、教会が「アスベスト問題」に関わることが大切だと言おうとしているのではありません。大切なのは、「目の前にいて、困難な問題を抱えている人」に関わることです。
相手の痛みや苦しみを知りともに祈る、そしてそれぞれが自分にできることをしながらともに歩む‥‥このことが何よりも大切です。そしてそれぞれの取り組みの中から、いのちを脅かす社会の大きな矛盾に気づかされたり、現代という時代のかかえる問題を掘り下げたりすることができるようになります。
私たちは、目の前にいる人がと関わりながら、何をイエスに対してすべきなのか、どうしたら私たちがイエスに従っていけるのかを考え続けたいと思います。
皆さんの中には、「他人の問題に関わっていられない、自分自身の問題にすら関われないのに‥‥」と考えておられる方がいるかもしれません。もしそうであれば、その問題をまずは教会の中で、牧師である私に対してでも、あるいは近くにいる誰かに対してでもかまいませんので、伝えてほしいと思います。もしかすると自分の抱える問題は、決して自分だけの問題でなく、ほかの人にも関わりのある問題かもしれません。そしてその問題を解決するために協力し合うことができるかもしれません。そのことを通して、イエスを中心にともに支え合い、ともに生きる交わりをつくることができるのです。
主なる神さま、
主イエスは、「わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである」と言われました。
私たちはそれぞれさまざまな問題をかかえています。
あなたに導かれ、それぞれのかかえる問題をともに担い合い、
ともに生きる交わりをつくることができますように。
一人ひとりを大切にする社会を築くことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン