2010.10.24

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「主が見守ってくださる」

村椿嘉信

詩編121編7-8節; マタイによる福音書6,16-18

テキスト:

01:目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
02:わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
03:どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
04:見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
05:主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
06:昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
07:主がすべての災いを遠ざけて、
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
08:あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。

 

山々を仰ぎながら:

 山々を仰ぎながら、神のことを思う‥‥というと、私たちは、山々を「神」と見なしたり、山々を「神の住む家」、「神の宿る場所」とみなす日本的なイメージを思い起こすかもしれません。

 「山岳信仰」という言い方がありますが、「山岳信仰」を辞書で引くと「山に超自然的な威力を認め、あるいは霊的存在とみなす信仰。日本では古来の土俗信仰としてあったものが民間信仰として生き続けた‥‥」(広辞苑6版)などと書かれています。山岳信仰とは、山を神聖視し、崇拝の対象とする信仰のことで、日本では、縄文時代に始まったとも言われています。あるいは、縄文時代の人々が山に対する感謝と畏敬の念をもっていたことに始まり、農業が行われるようになってから、山を神として崇拝しつつ、一方では山を恐れるという民間信仰に発展したとも言われています。

 しかし聖書の世界では、神は、山に住んでいるのでも、山から降りてくるのでもありません。詩編121編の作者は、「目を上げて、‥‥山々を仰ぎ」ながら、「わたしの助けはどこから来るのか」と問い、すぐに「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(1節)と答えています。

 神は天と地を創造された方なので、神が創造したあらゆるものを越えて存在しています。神が創造したもの、つまり「被造物」は、決して神にはなれません。「山」が神になることはできません。また神は被造物を越えた存在で、被造物の中に神が住んでいるのではありません。「山」に神が住むことはありえません。神は、神が創った物に関わりを持ちます。詩編の中にも、神が大地を揺り動かしたり、水を湧き上がらせたりするという表現が出てきます。しかし大地や、山や、海や、湧き水が神なのではありません。

 詩編121編の作者は、決して山々を見て感動しているのではなく、山々や、地上にあるすべてのものを造った主なる神を覚え、すべてのものの根源にある神を讃美しようとしているのです。

 

足がよろめかないように:

 さて、3節に、「足がよろめかないように」とあります。「あなたの足が」、「よろめく」ことのないように‥‥とあります。

 また8節に、「あなたの出で立つのも帰るのも」とあります。「あなたが出るときにも」、「あなたが入るときにも」‥‥という意味です。自分の生まれた故郷とか、自分暮らしている町や村を「出るときにも」、そこに「入るときにも」という意味です。

 このことから、1節2節の「わたし」とは、これから旅立とうとしている人のことだとわかります。1節の最初の部分に、「都に上る歌」とありますが、原文には「都」という言葉はありません。おそらくエルサレムという都が山の「いただき」にあったところから、「都に上る歌」というように理解されたのだと思います。詩編の作者は、エルサレムへ向かおうとしていたのかもしれません、あるいはエルサレムではなくて別の目的地に向かおうとしていたのかもしれません。いずれにせよ、目的地まではかなりの距離があり、目の前には山々がそびえていました。「山々」は、神の居場所というよりも、この詩人にとって行く手を阻む障害物と考えられます。その障害物を越えて、目的地に到達することができるよう、主なる神に祈り求めているのが、この詩編の内容です。

2節の「わたし」は、今や、旅立とうとしています。力強く、「わたしの助けは、天地を造られた主から来る」と語っています。「だいじょうぶ、主なる神さまがわたしを見守ってくださる」と告白しています。

 その言葉に、3節以下で、別の人物が応じています。その人が、家族なのか、友人なのか、同僚なのかはわかりません。しかし旅立とうとする人の行方を案じ、その人の安全を願い、おそらくは、しばらくの別れを惜しみながら、「主(なる神)があなたを助けてくださるように」(3節)と語っています。

 3節に、こうあります。

「主があなたを<助けて>くださるように」、
「主が、あなたの足が<よろめくことのないようにして>くださるように」、
「主がまどろむことなく(居眠りすることなく)、見守ってくださるように」。

 4節ではその主なる神について、神は、「まどろむことも、眠ることもない」のだと語られています。5節、6節では、「その方が、あなたを常に見守り、あなたの覆いとなり、あなたの右にいてくださるのだと、つまりあなたとともにいてくださるのだ‥‥」と書かれています。昼のギラギラとした太陽のもとでも、夜、病いをもたらすとも言われていた月の光のもとでも、神が盾となり、「神が覆いとなって、あなたを守ってくださる」と語られています。

 この詩には、「見守る」という言葉が6回も登場します。旅人の身を案じながら、主なる神が、すべての災いを遠ざけ、あなたを、あなたの魂を、今も、そしてとこしえに、常に見守ってくださるようにと祈り願っているのが、3節以下の部分です。

 

旅立ちの歌:

 ところで今日は、音楽礼拝を守っています。私はこの教会に赴任する前の7月と8月にここで説教をする機会を与えられましたが、その少しあとで、音楽礼拝の担当者の方からメールをいただきまして、10月に音楽礼拝があるけれども、どのような内容にするかと相談を受けました。私は、今までの様子もわからないし、具体的なイメージも湧かず、何も答えることができませんでした。そうこうするうちに、その担当者のほうから、聖歌隊をつくり、詩編121編をもとにした讃美歌を歌い、その詩編を中心に礼拝を守りたいという提案がありました。私は、聖歌隊がその讃美歌を歌うのであれば、私も詩編121編に基づいて説教をしようと考えました。

 詩編121編を、私はいつの頃からか、自分勝手に「旅立ちの歌」と呼ぶことにしています。これは余計なことかも知れませんが、皆さんも、自分の好きな詩編に、自分なりの呼び名をつけてもいいのではないかと思います。

 なぜ「旅立ちの歌」なのかと言いますと、すでに述べましたように、1節、2節には、これから旅立とうとする人の力強い言葉が述べられているからです。「天地を造られた主なる神のもとから、わたしの助けがくる」と。つまり「安心して私は旅立つことができる」と。そして、3節以下に、その旅人を送りだす人の言葉が述べられているからです。「主なる神が、あなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく、見守ってくださるように」と‥‥。

 みなさんの中には、今、まさに旅立とうとしておられる方、これから旅立とうと準備しておられる方がおられるかもしれません。あるいは、すでに旅立っており、目的地に向かって旅を続けておられる方、また逆に、旅人を送りだそうとしておられる方がいるかもしれません。

 私たちの代々木上原教会では、この秋に、村上伸牧師が辞任されました。「今」というこの時は、神の前でひとつの仕事が終わった時でもありますが、同時に、神の前で新たな旅立ちをされる時でもあると言えるのではないかと思います。また今日は、この礼拝直後、陶山義雄協力牧師への感謝の言葉が述べられることになっています。「協力牧師」としての役割から退かれることになりますが、このことは先生にとっての新たな始まりの時である、新たな旅立ちの時であると考えることができると思います。

 私たちの教会では、今年、結婚式を挙げられた方もいますし、またこの12月に結婚式を挙げようと準備されている方もいます。結婚も、新たな旅立ちです。また就学、就職などで、すでに新しい学校に入学されたり、新しい職場に就かれた方もいると思います。これも旅立ちです。

あるいは、私たちはすべて、神の国に向かって旅を始めた者だと考えることができます。私たちすべてが神の国に向かう旅立ちを経験した者です。愛と正義と平和を求めて、人と人との生きた交わりを求めて、私たちは旅を続けているのです。そういう旅人である私たちにとって大切なことは、お互いに「主なる神が、あなたを見守ってくださいますように」と声をかけ合い、神が私たちを見守ってくださるように願い求めることではないでしょうか。そして私たちを、まどろむことなく助け、導いてくださる神に感謝し、心からの讃美をささげながら歩むことではないでしょうか。主なる神がいつも旅人である私たちを見守ってくださることを覚え、その神に感謝し、その神を讃美する者となりましょう。

 

神の見守りとは:

 さて、最後に、「神が私たちを見守っていてくださる」とは、どういうことなのかを考えてみましょう。神は遠くから見ていてくださるだけで、何もしてくれない‥‥ということではありません。私たちの人生の旅には、山もあり、谷もあります。見守ってくださるとは、神がいつもともにいてくださるということです。私たちがたとえ「死の陰の谷」(詩編23,4)を歩むときにも、私たちが負うべき十字架を私たちの代わりに担ってくださる主イエスが、いつも私たちとともにいて、私たちを力強く励まし、生きる<いのちの力>を与えてくださるということです。神は常に愛をもって、私たちとともにいてくださいます。神が見守ってくださるから、私たちは、この世の闇の力を恐れることなく、不安を覚えることなく、神の国に向かって歩むことができます。

神が見守ってくださるとは、神が私たちの<いのち>を支え、神が私たちの心を生かしてくださるということです。だから私たちは、心まで冷えてしまうようなこの時代のただ中にあって、人と人との愛に満ちた関係を求めて、ともに歩むことができるのです。

私たちは、まさに私たち人間とともに歩まれたイエスの生涯、イエスの教えを思い起こしながら、互いに「主があなたを見守ってくださるように」と祈り求めつつ、ともに神の国に向かって旅を続ける者となりましょう。

 

主なる神さま、
あなたは常に私たちとともにいて、私たちを導いてくださいます。
私たちはこの世では労苦があります。
しかしどのような山や谷が私たちの行く手を阻もうとも、
私たちはそれを乗り越え、神の国へと前進することができます。
それは常にあなたが私たちを見守ってくださるからです。
このことを心から感謝します。
これからもあなたが常にともにいて、
私たちを見守ってくださいますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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