2010.10.10

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「神の国の到来」

廣石 望

イザヤ書55,8-13; ルカ福音書17,20-21

 「神の国」はいつ来るのか?」――そうイエスは問われたと今日のテキストは言います。「神の国」とは、神が王として支配すること、そのような時代、およびそのような支配権が及ぶ領域という意味です。「神の国」は、イエスが神から自分に託されたと理解した使命とメッセージを、一言で表すために用いられたシンボリックな表現でした。

 「神の国」とは、〈人間〉の支配ではないという含意です。イエス時代のパレスティナを支配していたローマ帝国には皇帝神学がありました。そしてイスラエル民族の王家は、じっさいにはローマの傀儡でした。そしてそこにはさまざまな意味での抑圧がありました。そのような人間の支配が最終決定的なものではない、というメッセージが「神の国」というシンボルには含まれます。

 同時にイエスの時代のユダヤ教には、民族主義的な革命神学がありました。異教徒であるローマとこれに寄りかかった支配勢力を一掃して、ユダヤ民族に固有な神の名による、新しい神権政治を打ちたてよう。そしてそのためには暴力も行使しようという神学です。これに対してイエスの「神の支配」は非暴力的でした。彼のいう「神の国」は暴力による権力革命をも、人の支配として拒否するものでした。

 いまひとつの「神の国」の含意に、〈悪霊〉による支配ではないということがあります。イエスについてたくさんの治癒奇跡や悪霊祓いの奇跡が伝えられています。当時、民衆の間では、心や身体の病気は悪霊や穢れた霊によって引き起こされると考えられていました。そのような社会の中で、イエスは病気を治し、悪霊を祓いました。そのときイエスはこう言っています、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11,20)。

 人間や悪霊ではなく、ただ神が支配するときが来る。そしてそれが人間に救いをもたらす。――これはユダヤ教の一神教の伝統から生まれた、自由への夢なのではないでしょうか。

 

II

 先日、今年のノーベル平和賞が、中国の劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏に授与されることが決まったというニュースに接しました。彼は1989年の天安門事件で、研究先の米国から帰国してハンストに参加して逮捕された方です。後に出獄後も監視下に置かれながら、非暴力で民主化を求める活動を続け、2008年に中国共産党の一党独裁体制の廃止などを求めた声明「08憲章」を公表する直前に再逮捕されました。「国家政権転覆煽動罪」で起訴されて、懲役11年の有罪が確定し、現在は服役中です。

 その08憲章の「我々の基本理念」の冒頭に「自由」という項目があり、次のようにあります。

 「自由:自由は普遍的価値の核心である。言論・出版・信仰・集会・結社・移動・ストライキ・デモ行進などの権利は自由の具体的表現である。自由が盛んでなければ、現代文明とはいえない。」

 そもそも隣国中国は日本との関係がたいへん深いです。劉氏は、私たちが数年前に研修旅行で尋ねた長春市の出身で、彼の運命は他人事とは思われません。彼の心の中にも、自由への夢が生きています――2先年前のナザレのイエスの場合と同様に。

 

II

 イエスは「神の国は近づいた」(マルコ1,14)と言いました。「ならば、いつ来るのか教えてほしい」という質問が返ってきたということでしょうか。

 そもそも「神の国はいつ来るのか」という質問は、少し他人行儀な感じがします。いったい誰がこう問うのでしょうか――民主化を求める仲間たちでしょうか。武装闘争をよしとする人々それとも非暴力の立場に立つ人たちでしょうか。あるいは思想的な自由よりも、いま享受している経済的利益を最優先させようとしている人たちでしょうか。それとも現在の政治体制を維持しようとし、その中で働いてもいる人たちでしょうか。

 今日の聖書箇所は、ファリサイ派の人々が問うたと言います。――当時のユダヤは基本的に、イスラエル民族の神を中心にすえた神権政治でした。しかしじっさいにはローマ帝国に認められた王とその家臣たち、つまり「ヘロデ党」が一方に、そして他方にはエルサレム神殿を中心とした貴族祭司たち、つまり「サドカイ派」がいて、権力エリートは分裂していました。ローマ帝国はこの分裂を利用して支配しようとしたわけです。

 そして当の「ファリサイ派」は、ユダヤ教律法の遵守を訴える民衆レベルの改革派として、神殿に関する利益を貴族祭司たちと共有していました。と同時に彼らは、終末論をもっていました。つまりファリサイ派は現行の体制にも、また新しい体制にも、その両方にアクセス可能な立場をとっていたわけです。その意味では、彼らの「神の国はいつ来るのか」という質問は、中立的な立場からイエスのポジションを測定するためであったかもしれません。

 

III

 この問いに対するイエスの返答は、まずは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」というものです。神の国は目に見えない仕方で到来するので、ここやあそことその場所を指差すことはできない、という意味だと思います。

 しかし「神の国は、見える形では来ない」という新共同訳聖書の日本語訳は、かなり大胆な意訳です。ギリシア語原文は「神の国は、観察とともには来ない」です。「観察とともに来ない」とあるのを、観察しても「見えない」という意味だろうと理解したのだと思います。例えば、ある広く用いられる英訳聖書(改訂標準版New Standard Revised Version)は少し言葉を補いながら、「神の王国は、観察可能なものごととともに到来しない。The kingdom of God is not coming with things that can be observed」と訳します。――以下では、新共同訳聖書の訳文とは異なる理解の可能性を探ってみましょう。

 「観察」(ギリシア語「パラテーレーシス」)とは何でしょうか。それは古代では、主に天体観測のことでした。これは占星術の用語なのです。占星術では天体の運行を観察して、そのデータを集めました。しかしそのデータは「暗号」のようなもので、星の動きの意味を知るには「解読コード」が必要です。それが占星術の知識に他なりません。

 占星術は古代世界において、立派な学問でした。世界の運命は星々の動きの中に書き込まれていると考えられたからです。ちなみにマタイ福音書は、イエスの誕生にさいして、東方から「占星術の学者たち」が来たと語りますね。その人たちはヘロデ王にこう言います、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2,1)。またユダヤ教黙示思想では、世の終わりまでの残された時間を計算するために、占星術の知識が利用されました。ローマ帝国でも事情は似通っています。皇帝とその臣下たちは、例えば彗星が現れたのを〈新時代の幕開け〉のしるしと宣言して、自分たちの支配に宗教的なオーラを与えるための式典を挙行する機会として利用したのです。

 「観察」をそのようなものと理解するとき、そこに特徴的なのは、いわば二段構えの現実認識とも言うべき態度です。つまりある現象を何か別のものの〈予兆〉と見なして、特権階級の人々にしか理解できないような仕方で、その現象の背後に向けて理論的に解読する。具体的な現実を、その背後に想定された別のリアリティの隠された表現と見なす、という態度です。

 これに対するイエスの返答が、〈神の支配は、予兆を読み解くような仕方では到来しない〉というものだったのです。すると「ここにある」「あそこにある」と言われるのは、「神の国」そのものではなく、その予兆のことだろうと思います。――じっさいイエスは、お前が神の使者であるなら、その証拠として「天からのしるし」を見せろと要求されたとき、「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と返答し、しるしの要求を拒絶しました(マルコ8,12)。

 

IV

 「実に神の国はあなたがたの間にある」――このたいへん有名なイエスの言葉は、どういう意味なのでしょうか? 

 じつは新共同訳の訳文は再び意訳で、原文は「なぜなら見よ、神の国はあなた方の中にあるからだ」です。そして、この発言には長い解釈の歴史があります。神の国とは、あなた方一人ひとりの内面にある「精神の王国」であるとか、あなた方の間で実現されるべき「理想社会」のことであるとか。どの理解が適切なのでしょうか?

 「中に」と訳される前置詞(エントス)は、通常の「〜の中にin」という意味の前置詞(エン)と違って新約聖書に用例が少ないため、その意味がよく分かりませんでした。しかし、もう40年以上前に、一人の西洋古典学者が用例をおさらいして、「〜の射程圏内に」「〜の手の届くところに」という意味であろうと述べています。すると「神の国はあなたがたの間にある」とは「あなた方の手の届くところにある」、つまり「あなた方の日々の経験の中にある」という意味になると思います。

 このように理解すれば、この言葉は、なぜ神の国の到来を観測というモードでとらえることが不適切であるかについての、きちんとした理由説明になっています。経験を「観測」する者は、経験そのものに注目しません。それは何か別のものの予兆ないしデータに過ぎないからです。しかし神の国は、できごととして経験そのものの中に来る。ならば、神の国を経験の背後ないし彼方に探すのは、見当違いな探し方なのです。

 神の国が人間の経験の中にできごとして到来するとは、神の国は私たちが質的に新しい経験をすることの中に、それを可能にする神の力としておのずと明らかになるということだと思います。

 ここで、イエスがしばしば譬えを用いて「神の国」について語ったことを、ぜひ思い出していただきたいと思います。彼の譬えには、例えばー時間しか働かなかった人が、丸一日働いた人と同じ給料をもらうといった具合に、思いがけない筋の展開が備わっています。そうすることでイエスは、聞く者に日常経験を新しく理解するよう教えました。イエスの譬えは、神の国がどのようにして人間の経験の中に到来するかを実演してみせるもの、そしてそのことを実際にできごととして生じさせるパフォーマンスでした。

 「神の国」は私たちを日々新しく生かす神の力として、私たちの手の届くところ、私たちの経験の中にあります。それが見えるか見えないかは二次的な問題ですね。

 

V

 私の敬愛する詩人・星野富弘さんに「愛されている(春蘭)」という小品があります。

どんな時にも
神様に愛されている
そう思っている
手を伸ばせば届くところ
呼べば聞こえるところ
眠れない夜は枕の中に
あなたがいる

 「手を伸ばせば届くところ」――そこにまた「神の国」もあるのではないでしょうか。牢屋の中にいる劉暁波氏は、国際社会が彼と、また彼と志を同じくする人たちを応援していることを知っているでしょうか? イエスを生かした神の力が彼を支え、今週もまた私たちを支えますように!



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