2010.9.5

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「共同の相続人」

村上 伸

イザヤ書44,1-8; ローマ8,14-17

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(14節)とパウロは言う。「神の霊によって導かれる」とはどういうことか? 目には見えない神の霊の力が外から私たちの中に入って来て私たちを支配し、私たちの心を動かし、神の定めた目標に向かって私たちを導いて行く、ということであろう。これは、聖書の中の多くの人たちが人生の歩みの中で経験した現実であった。

 だが、人間の「自主性」を重んじる人々の中には、このような言い方に反発する人もいるかもしれない。実際、そうした観点からのキリスト教批判は少なくないのである。つまり、キリスト教は、難しい問題に直面すると人間の持つ力で「自主的に」それを解決しようとせず、安易に「機械仕掛ケノ神」(Deus ex machina)を持ち出してそれに依存しようとする、そのような「奴隷根性」がキリスト教にはあるのではないか、という批判である。

 だが、パウロは、「神の霊によって導かれる」ことは、自主性を捨てて奴隷のようになることでは断じてないと主張する。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(15節)。この点に注目したい。

 ここで私は、鈴木正久牧師が書いた次のような文章を思い出す。「神を信ずる人間はこの世界の中で、最も独立的な人間でなければならない。一切を神に任せ神に信頼しているとは、この世の何物にも束縛されないことではないか。・・・それならば、キリスト者ほど強い人間は世にないはずである。・・・神の言により周囲の風波に目を奪われず、一人歩きせよ。ただ神の言によって、この世では最も独立的な人間であれ」(『鈴木正久著作集第一巻』314頁)。

 この凛々しく格調高い文章は、敗戦後一年も経っていない1946年5月に書かれた。敗戦の傷はまだ癒えておらず、そして日本の教会の中には、戦時下の反省はそっちのけにして戦勝国アメリカに阿ったり、「キリスト教国」アメリカの善意に甘えたりするような風潮が高まっていた時期である。事実、教会にはさまざまな救援物資が届けられ、米軍の兵舎が礼拝堂用に払い下げられたりした。

 その時期に、「神を信ずる人間はこの世界の中で、最も独立的な人間でなければならない。一切を神に任せ神に信頼しているとは、この世の何物にも束縛されないことだ」と断言したことは、まことに優れた見識である。そして、それは、パウロが「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と言ったこととも一致する。信仰は、他者依存的な人間ではなく、真に自主的で独立的な人間を生み出すのである。「神の子」とは、自主的、かつ独立的な人間を指すのである。

 パウロは続けて、「この霊によってわたしたちは<アッバ、父よ>と呼ぶ」(15節後半)と言う。「アッバ」とはアラム語で、いわば「お父ちゃん」に当たる。そのことを考えると、「神の子とする霊を受ける」とは、神と私たち人間との関係が、霊の力によって、父親と幼い子供たちとの間に見られるような親しい関係になる、という意味にも取れる。あるいは、福音書でイエスが言われたように、「子供のように神の国を受け入れる人」(マルコ10章15節)になる、という意味かもしれない。

 解釈の可能性はいくつかあるだろうが、私は、今日のテキストの前後関係から、むしろ17節に注目したい。「もし子供であれば、相続人でもあります」。つまり、ここでは、「神の子である」ということは「相続人である」ということと同じだ、と言われているのである。

 「相続人」については、『ヘブライ人への手紙』に注目すべき文章がある。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発した」(11章8節)。

 これは旧約聖書の『族長物語』の一部だ(創世記12章1節以下)。それによると、アブラハムは自分が財産として受け継ぐことになる土地の「相続人」に指定された。それは、後にイサクやヤコブにも受け継がれ、さらに、空の星・海辺の砂のように増えると約束された子孫たちにも受け継がれるはずの土地である。

だが、約束の土地に行くために故郷を出るとき、彼は、行く先を知らなかった。つまり、相続人には指定されたものの、その土地を実際に所有するには至っていないのである。にもかかわらずアブラハムは、「約束をなさった方は真実な方であると信じて」(ヘブライ11章11節)、約束が実現する時を忍耐強く待望していた。「神の子となる」ということは、このように、「約束の相続人になる」ということなのである。

 最後に、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(17節前半)という聖句に注目したい。

 私たちは約束の相続人であって、約束が成就される時を忍耐強く待望している。「おびただしい証人の群れに囲まれて」(ヘブライ12章1節)そのように生きている。多くの証人に囲まれているだけではない。キリストは、復活において私たちに先立って約束の成就を経験された。だから、私たちは「キリストと共同の相続人」なのである。

 ローマ8章11節にはこう書いてある。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。このことを信じたい。



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