「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(7-8節)。
これは、単純で偉大な真理である! この真理を身をもって私たちに示したのは、イエス・キリストであった。彼は人としてこの世に生まれ、この神の愛を現実のものとして現すために、その命を捧げられた。だから、ヨハネはこう言ったのである。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(9節)。
20世紀を代表する偉大な神学者カール・バルトは、一度アメリカに招かれたことがある。ある所で講演した後で、一人の老女性が質問した。「バルトさん、あなたは難しいことを沢山お書きになっているらしいけど、要するに、何が言いたいのですか?」。
バルトはニコニコ笑って、英語でこう答えた。"Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so". これは、皆さんも良く知っている「主われを愛す」という讃美歌(原詩)の最初の1行である。「イエスは私を愛している / このことを私は知っている / 何故なら聖書が私にそう告げているから」。バルトらしく当意即妙の答えだ! だが、単に「機知に」富んでいるだけではない。彼の全神学は、正にこのための努力だった。
やや話が飛ぶが、先週23日の『朝日新聞』朝刊に、作家・三浦哲郎さんの近況が紹介されていた。私は中学五年生の時、旧制・八戸中学に転校し、僅か一年だが彼と同期生だったこともあって、特別な関心をもって彼の文学に注目してきた。2001年に脳梗塞を患ったと聞いて心配していたのだが、『朝日』の記事によれば、右足にまだ後遺症が残るものの、久し振りに「小説を書く気力が戻ってきた」という。
私は三浦さんの作品はどれも好きだが、特に『白夜を旅する人々』(1984年)という作品には大きな感銘を受けた。彼は、八戸の大きな呉服屋に6人きょうだいの末弟として生まれたのだが、6歳の時、二番目の姉が青函連絡船から津軽海峡に飛び込んで自殺する。同じ年の夏には、一番上の兄が失踪する。さらに翌年の秋には上の姉が服毒自殺する。その後10年以上も経ってから、今度は二番目の兄が行方不明になる。6人きょうだいの内の実に四人までが自滅したのである。容易ならぬことだ。
どうしてそんなことになったのか? 彼が作品の中で説明した所によれば、お姉さんのうち二人は先天的に色素がない体質で、人々から「白ッ子」と呼ばれており、家中でそれを気にしていた。そして、子供たち、特に姉たちは、それを「この家族には劣性遺伝の血が流れている」と受け止めて、打ちひしがれたらしい。
三浦さんは、この小説の中に、最初に自殺したお姉さんを登場させ、その日記を紹介している。「私は知っている ―― それが去年の夏期講座の最終講義で産みつけられた卵から孵った、自分自身の劣性遺伝質の結晶だということを。卵は、私が孵したのだ、片時も離さずに暖めて。・・・芋虫はまるまると肥え太っている。胸の中に湧いてくる意志や勇気や希望や夢を、片っ端から食い尽くすからだ。・・・私が生きている限り、芋虫は私の胸の中で生き続けるだろう。芋虫を殺す方法は、たった一つしかない。それは、私自身が死ぬことだ」。
その時、三浦さんはまだ6歳だったから、お姉さんのこの絶望を正確に理解することが出来たかどうか。それは分からない。しかし、このお姉さんが入水する直前、この幼い弟を背中に負ぶって、哀切極まりない別れの言葉を語るのを聞いている。だから、おぼろげではあっても、姉の絶望を感じ取っていたであろう。彼も、この問題に苦しんだのだ。そして、自分の中にもいる「芋虫」と、長い間格闘したことであろう。その苦しみ・格闘を、自分の家族だけの問題にとどまらず、人類の普遍的な問題として昇華させた。それが『白夜を旅する人々』という作品である。
今、三浦さんはその続編を書きたいと考えているという。そのきっかけは、岩手県・一戸町で暮らしていたもう一人の姉・きみ子さんが、この3月、89歳で亡くなったことだった。彼は言っている。
「姉は弱虫で生きる気力に乏しく、やはり自滅するのではないかと心配していた。しかし、僕より強かった。芯に強いものを持っていた。相次ぐ家族の死と失踪に鍛えられたのでしょう。85歳を過ぎるまで琴を教え、やめてからもお弟子さんに慕われていた。・・・この姉が、誰にもみとられることなく、夕方に亡くなった。ところが、もう米はといで炊飯器に入れ、水を張っていたのです。翌朝もいつも通り生きるつもりだったのでしょう。見事な幕引きだった。姉の人生は決して淋しいものではありません。姉のことを書きたい。あの米を見て心から思いました」。
最後まで残ったが、「やはり自滅するのではないか」と心配されていた唯一人の姉が、相次ぐ家族の死と失踪にもかかわらず独りで人生の「見事な幕引き」をするまで生き抜いたこと。そして、このお姉さんが最後にといでおいた米を見て、「姉の人生は決して淋しいものではありません。姉のことを書きたい」と言った彼の優しさ。ここには、むろん家族の愛がある。だが、それだけではない。ここで証しされているのは、「この世界を底辺で支えているのは大いなる神の愛である」という真理ではないか。
ヨハネは、今日の箇所をこう締めくくっている。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(12節)。