2010.8.8

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「神の自由な選び」

廣石 望

創世記21,9-13; ローマの信徒への手紙9,1-12

 

I

 今年の8月6日、広島への原爆投下から65年目の平和記念式典に、米国大使や英仏代表が初めて参加したというニュースに接しました。同時に、じっさいに原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長であった方の息子さんが、米国大使の式典参加は「無言の謝罪」に当たる、つまり日本がしかけた戦争を米国が終らせたという従来の歴史理解を書き換えることを意味するので、承服できないとコメントしたとも聞きました。

 いったい歴史は誰のものなのでしょうか。――戦争で核兵器を使用する主体は国家です。戦勝国がその後の世界のあり方を大きく決めてきたのも事実でしょう。しかし東西冷戦時代に核兵器を含む軍拡競争はエスカレートし、冷戦後も核兵器は分散を続けています。これが地球規模の危機であることは明らかです。

 他方で、原爆に代表される大量破壊兵器の攻撃に晒されるのは、じっさいには一人ひとりの個人です。その被害は、戦勝国と敗戦国という単純な線引きを超えます。広島の被爆者には日本人と並んで、多数の朝鮮半島の出身者が含まれます。さらに捕虜になった米軍兵士もいます。国家が書く歴史と並んで、あるいはそれ以上に、巨大な暴力に晒されて傷ついた人々、武力による威嚇のない世界を望んでいる一人ひとりの個人もまた、歴史を書く権利をもっていると思います。

 

II

 振り返れば、キリスト教の歴史も「勝者」によって書かれてきました。とびきり大きな問題はユダヤ教との関係です。キリスト教はユダヤ教を克服したより優れた宗教である、といった見方が私たちの間にもはやなければよいのですが!――こうした理解が生じた背景のひとつに、キリスト教会からユダヤ人キリスト教徒の存在が消えてしまったことがあります。イエスもペトロもパウロも、ユダヤ人だったのに。

とりわけ神の民イスラエルの未来について論じた『ローマの信徒への手紙』9-11章は、キリスト教の歴史の中で、異邦人キリスト教の視点から、ユダヤ教と対比しつつ自らを宗教的に正当化する論理で読まれてきました。すなわち〈真のイスラエルは今やユダヤ教からキリスト教会に移行した〉という理解です。〈ユダヤ人はキリストを殺し、神の福音を拒絶することで滅びに定められた民族である〉というキリスト教的な反ユダヤ主義は、ナチス・ドイツによるホロコーストの論理といかに調和的であったことでしょう。――パウロ自身は、イスラエル民族は神の約束の中にあると明言しているにもかかわらず。

 

III

 じつは、それと似ていなくもない状況が、パウロが書簡を執筆した当時のローマ教会にあったようです。――この教会の起源は不明ですが、ユダヤ教会堂から出発して異邦人伝道を行う混成教会であったことは確かです。ところが紀元49年、皇帝クラウディウスから、すべてのユダヤ人は都市ローマを去れという追放令が出ます。ユダヤ人が「クレストゥスなる男の煽動でひっきりなしに騒動を起こしたのでimpulsore Chresto assidue tumultuantis」と歴史家スエトニウスは記しています(「クラウディウス」25,4)。ユダヤ人キリスト教徒が異邦人伝道を行うことで、ユダヤ教会堂の基盤を崩していったことが騒動の背景にあるだろうと思います(「クレストゥス」は典型的な奴隷の名。「キリスト」を奴隷出身の扇動者と勘違いしたのでしょう)。そのクラウディウス帝の死(54年)の後、次の皇帝ネロが恩赦により追放令を解除します。これを受けて、ユダヤ人は徐々にローマに帰還しました。そのように動いた人々の中に、ユダヤ人キリスト教徒の夫妻であるプリスカとアキラがいます。彼らはローマを追われてコリントに滞在していたときパウロと出会い(使徒言行録18,1-4)、パウロがローマ教会宛の書簡を執筆したときには都に戻っていました(ローマ16,3以下)。

 ユダヤ人が強制退去させられている間に、ローマ教会の主導権は異邦人キリスト教徒に移行したはずです。ユダヤ教会堂との関係も消滅したでしょう。初めは強いられた自立であったとしても、異邦人キリスト教は都市ローマの教会でしだいに指導的な地位を築いてゆきました。そこにかつての仲間たちであるユダヤ人キリスト教徒が戻ってくるわけです。一般市民はユダヤ人を、皇帝の慈悲によって帰還を赦された「二級市民」と見下したに違いありません。そうした見方に、ローマ教会の異邦人キリスト者たちが影響を受けた可能性があります。そもそもユダヤ民族は、都市ローマのみならず帝国の各地でさまざまな騒乱に巻き込まれ、その原因はしばしばユダヤ人に帰されました。つまり〈真のイスラエルは今やユダヤ教からキリスト教会に移行した〉とは、ローマの異邦人キリスト教徒たちが生み出した自己理解である可能性があり、まさにその理解に対してパウロは修正を加えようとしているのです。

IV

 まずパウロは、自分もキリストもユダヤ人であると強調します。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(3節)、「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」(4節)――これらの発言は、主としてローマ教会の異邦人キリスト者に向かって、彼らのユダヤ人蔑視を戒めているようです。

 他方でパウロは、民族出自に基づくイスラエル選民思想に、すんなり依拠するわけにもゆきません。彼が実践してきたのは異邦人伝道、すなわちキリストの名によって、人の出自に左右されない新しい共同体を作る活動だったのですから。「もはやユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3,28)――これが、パウロも継承した異邦人伝道の基本理解です。

 続けてパウロは、「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない」(6-7節)と言います。しばしばこの言葉は、〈イスラエルの中に選ばれる者とそうでない者がいる〉、あるいはさらに進んで〈今や民族としてのイスラエルではなくキリスト教会こそが真のイスラエルなのだ〉という意味に理解されてきました。しかしギリシア語の原文を見ると、別の翻訳の可能性があります。「すなわちこれらのイスラエルがすべてイスラエル出身ではなく、すべての子らがアブラハムの種というわけでもない」と読む可能性です。そう読めば全体は、神の民にはイスラエル民族の出身でない者たちが含まれるという意味に、つまり異邦人キリスト者は、民族の出自を超える神の自由な選びによって神の民に加えられた、という意味になります。――この発言は、ローマ教会に向かって、ユダヤ人と異邦人からなる混成教会としての歩みをもう一度始めるよう促しているように感じられます。

 「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」(6節)とは、実質的には「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされる」(8節)ということなのでしょう。この発言のキーワードは出身民族の境を超える「約束」です。発言のポイントは、誰が約束の内側にあり誰が外側にあるかではありません。ポイントは、むしろ見かけの状況と真実の対比関係にあります。

パウロはイスラエル民族の先祖たちの物語を引き合いに出して、そのことを例証します。――アブラハムの長子はイシュマエルです。世間的には長子が血筋を継承するのが当然でした。しかし実際には不思議な誕生を通して、次男であるイサクが神の約束の担い手になりました。そのイサクに双子の息子が生まれたときも、当然そうであるべき長子の特権は、さまざまな経緯をへて次男ヤコブに継承された。つまり神の約束は、社会で当然と見なされたラインではなく、それとは外れた、自由なかたちで実現されてきた。それはイスラエル民族の先祖たちの時代から、そうだったというわけです。

都市ローマの市民たちの目には、現状のイスラエル民族は帝国の厄介者、いわば〈野蛮人〉に近い存在に見えたことでしょう。ローマ教会の異邦人信徒たちも、もはやユダヤ人なしでやっていこうと考え始めていた。しかしパウロは、イスラエル民族の歴史は、そもそもの始まりから、神の「約束」の自由な実現によって担われてきたと言います。だからローマ教会の異邦人キリスト者たちは、見かけの現状や帝国支配者による民族差別の論理に乗せられて、ユダヤ人キリスト者を見下すような態度をとるべきでなく、自らも神の自由な選びによって担われた存在であると考えるべきなのです。

神の約束は見かけの現状を超えて進むというパウロの発言は、教会共同体の内側に限定されません。それは帝国の支配的イデオロギーを相対化し、帝国内の民族間憎悪を減少させる方向性を備えていました。

 

V

冷戦時代には、核兵器を用いて世界戦略を進めることは当然と思われました。私たちの国も、米国の「核の傘」に入ることを国の安全保障の基本としました。そのような時代に、核廃絶の願いは「どうせ適いっこない夢物語」「弱者の泣き言」「現実を理想と取り違える夢想主義」という扱いを受けてきたと思います。しかし秋葉忠利広島市長の平和宣言や国連事務総長の潘基文(パン・ギムン)氏のあいさつにもあるように、市民社会の声はまちがいなく核廃絶を望んできましたし、米国オバマ大統領のプラハ演説は、今や国家が市民の意見に自分たちを合わせるべきだという趣旨に理解できます。新しい時代は「国家」対「国家」、「戦勝国」対「敗戦国」、「核保有国」対「非保有国」といった、かつての立場の違いを超える合意に基づいて担われてゆくべきでしょう。ちょうどパウロが民族の違いを乗越えようとしたのと同様に。

教会はそのとき、どのような役割を果たすべきでしょうか。そのことを考えるヒントになるかもしれない言葉をご紹介します。今年はいわゆる韓国併合100年に当たります。そして私たちの国には、在日大韓基督教会があります。日本や韓国の通常の教会がそれぞれの「国」に属するのとは違って、むしろ国と国の〈はざま〉に立ち位置をもつ教会です。その名古屋教会牧師である金性済(キム・ソンジェ)氏は、あるシンポジウムでこう発言しておられます。「自己保存のための宣教ではなく、さらに増え続ける在日外国人や、社会的〈根無し草〉にされている日本人と共に、この地に生きる存在として共生の天幕を広げてゆきたい」(『キリスト新聞』2010年7月24日)。――この言葉は、「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされる」というパウロの言葉を、現代に言い換えたものであると思います。



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