15:わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。
16:み顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。
17:悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください。
18:ご覧ください。わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。
詩編25編を書いた詩人は、16節、17節からわかりますように、神さまに向かって「わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち、痛みからわたしを引き出してください」と祈っています。この詩人は、困難な状況におちいり、悩み、苦しみ、助けてくれる人もいないまま、日々、やっとの思いで生きています。
この詩人は、そのような苦難の中にあって、神さまに祈ろうとしています。主なる神さまに目を向け、神さまが答えてくださるのを待ち望んでいます。神さまに、「み顔を/あなたの顔を/わたしに向けてください/わたしをご覧になってください」と祈り求めています。
この詩人は、神さまは「その顔を向けてくださる方である」と理解しています。どういうことなのでしょうか。神さまはどのような顔をしておられるのでしょうか。どのような顔をわたしたちに向けてくださるのでしょうか。
聖書の中には、「神の顔」をいう表現がいくつか出てきます。その中には、人間は神さまの顔を見ることができないと書かれている箇所もあります。イスラエルの民を当時のエジプトから解放したモーセは、神さまが自分のそばを通り過ぎるのを見たそうですが、後ろ姿を見ただけで、モーセの顔はまっかに焼けてしまったということです。神さまの顔はあまりにも強烈に輝いていて、まぶしくて、見ることができないばかりか、後ろ姿を見るだけで、自分の顔がまっかに焼けてしまうということです。
神さまがどのような顔をしておられるのか、私たちには想像することすらできないことですが、でもはっきりしていることがあります。それは、神さまが顔を持っておられ、耳や、目や、口を持っておられるということ、そして私たちに顔を向けてくださるということです。
さきほど触れたモーセが、イスラエルの人々をエジプトから解放する指導者として神さまから遣わされたときに、神さまはモーセにこう語られました。
出エジプト記の3章7節にこうあります。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに「見」、
追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を「聞き」、
その痛みを知った」。
さらに9節にこうあります。
「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。
また、エジプト人が彼らを圧迫するありさまを見た」
神さまは、人々が苦しんでいるのを見、その叫び声を聞き、そして口を開いて、モーセに、「今、行きなさい。わたしはあなたを遣わす。あなたが、わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と語られたのです。
神さまが<目>を持っておられるということは、私たちが孤独でいたり、悩んでいたり、苦しんだり、悲しんだりしているときに、神さまがそれを「見て、私たちのありさまを理解してくださる」ということです。
神さまが<耳>を持っておられるということは、私たちが助けを求めて叫んだり、苦痛のあまりうめき声をあげたり、嘆いたり、つぶやいたりするときに、神さまがそれを「聞いて、私たちの苦しみを知ってくださる」ということです。神さまが耳を持っておられるということは、神さまが私たちの祈りを聞いてくださるということでもあります。
神さまが<口>を持っておられるということは、神さまが私たちの陥っている状況を知られた上で、その時々に、「私たちを慰めたり、励ましたり、私たちを導くために言葉を語られる」ということです。
さて、新約聖書を開いてみると神さまに遣わされた「神のひとり子」である私たちの主イエス・キリストもまた、私たち人間の一人ひとりに顔を向け、ひとりひとりに向き合ってくださる方であることがわかります。
主イエスは、町や村を巡り歩き、貧しい人々、困難な状況におちいっている人々、孤独の中に生きる人々を探しだし、その人が苦しんだり、悲しんでいるありさまを見られ、そのうめき声に耳を傾け、その人と向き合い、その人を慰め、励まし、その人を生かすために力強い言葉を語られました。そして「あなたがたもまた、『お互いに顔を向け合い』、『お互いを見つめ合い』、『お互いに相手を知る者』となって、愛をもってともに歩むように」と招いてくださいました。
主イエスは、ある時エリコの町でザアカイに顔を向けられました。ザアカイは、イエスがどんな人かを見ようとしましたが、背が低かったので、見ることができませんでした。群衆の最前列に立てば、主イエスを見ることができたかもしれません。しかし、人々から財産をだまし取り、不正を行っていたザアカイのために道を開けてくれる人は誰もいませんでした。それでも、たとえ遠くからでも、主イエスを見ようと木に登ると、主イエスは、そのザアカイに気づき、ザアカイが登った木の下まで行き、上を見上げ、ザアカイと顔を合わせ、口を開いて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけられました。主イエスは、このような仕方で、私たちと顔を合わせ、私たちに向き合ってくださる方なのです。そしてこのできごとは、ザアカイに自分自身を見つめ直し、また不正を働いている人たちとの関係を根底から見直すきっかけを与えました。ザアカイの話は今日はここまでにしたいと思います。私たちが、今、聖書から確認したいことは、主イエスがどのような方かということです。
主イエスは、きのうも、今日も、あしたも、変わることなく、私たち一人ひとりに顔を向けてくださる方です。
だから私たちは、主イエスに、「自分を見てください」、「自分の声を聞いてください」、「自分をなぐさめてください/励ましてください」、そして「自分を助け、導いてください」と祈り求めることができるのです。
そしてその主イエスが、私たちもまた、お互いに、「顔と顔とを合わせ」、「相手と見つめ合い」、「相手の声を聞き合い」、「相手と対話し合って」生きていくことを望んでおられるのです。
つまり主イエスに招かれ、うながされて、私たちもまた、それぞれ顔を持った人間としてともに生ききることができるのです。それこそが、人と人とが顔と顔を向け合い、愛によって関わり合う人と人との生きた関係であり、それこそが、主イエスの求めた神の国の交わりです。
ところで皆さんもご存じだと思いますが、日光の東照宮に、「見ざる、言わざる、聞かざる」という3匹の「さる」の彫刻があります。実際にご覧になったり、写真や映像で見られた方もおられると思います。
封建的な社会の中では、余計なことは一切せず、自分に与えられている仕事だけをこなしていればいい‥‥という教訓なのかもしれません。現代の日本において、人々が苦しんでいても「見ようとしない人」、助けを求めて叫んでも「聞こうとしない人」、目の前で不正が行われても「声をあげようとしない人」がますます増えているのではないかと思います。そういう風潮の中で、私たち自身も、何かをしようとすると、それが自分ひとりの負担になってしまい、負いきれなくなってしまうと思うことがあるのではないでしょうか。余計なことをすると、かえって自分にわざわいを招いてしまう、余計なことはよそうと考えることがあるのではないでしょうか。なるべくなら「見ざる、言わざる、聞かざる」という生き方のほうがいいと誰もが考えてしまう‥‥それが現代社会の大きな病いなのではないでしょうか。
でも聖書は、第1に、神さまはそういう方ではないと明らかにしています。
神さまは、戦争が今も継続され、平和が脅かされ、環境が破壊されようとしている世界の現状に「目を閉じ」、人間が苦しむありさまから「目をそらす方」では決してありません。神さまは、人間の叫び声や、うめき声から「耳をそらす方」では決してありません。神さまは、困難や孤独の中に生きるさまざまな人々に、「何も語ることなく、沈黙を続ける方」では決してありません。
神さまは、主イエスを十字架に追いやった人間社会の問題を知られ、私たちの苦しみや悲しみを知られ、その上でさらに私たちを慰め、励まし、この世界のただ中で、生きる力を与えてくださる方です。
聖書は、第2に、私たちもまた顔を持っており、相手と向き合い、ともに生きることが可能なのだということを明らかにしています。神さまは、私たちが「目を手でおおうことなく」、「耳をそむけることなく、相手の声を聞く」ように私たちを導いてくださいます。神さまは、私たちが、お互いに理解を深め合い、さらには「みずからも口をひらき」、沈黙ではなく、ともになぐさめ合い、はげまし合って生きるように力を与えてくれます。聖書はその神さまのもとで、私たちも顔を合わせて、ともに生きることができるということを明らかにしています。
私たちは、さまざまな問題に、見て見ぬふりをしたり、沈黙してしまうのでなく、なによりも「お互いの声に耳を傾け合い」、「声をあげ」、「お互いに支え合って」、ともに歩みたいと思います。そのための勇気を持ちたいと思います。
その勇気は私たちが手に入れようと努力して手に入れられるものではありません。その勇気は、主イエスによって与えられるものです。この世のただ中で私たち人間の自己本位な生き方を知られ、それにも関わらず「隣人を愛するように」と語られた主イエスによって与えられるものです。主イエスは、私たちに無理難題をつきつけようとしておられるのではありません。私たちに、ともに生きる可能性を示しておられるのです。そして、そのために力を与え、導き、また必要な助けを与えてくださるのです。
私は、教会とは、私たちに顔を向けてくださる神さまに、「私たちの側からも顔を向けるて歩もうとして、人々が集まる場」であると考えています。教会という場で、私たちは、神さまに造られ、いのちを与えられている人間として、神さまに顔を向けることができます。それだけでなく、教会とは、「私たちどうしも」顔を合わせながらともに歩むことが可能になる場であると考えています。顔を合わせるとは、一人ひとりを大切にし合うということでもあります。
最後にこの場をお借りして。私の今の気持ちをひとこと述べさせていただきたいと思います。皆さんの一人ひとりと顔を合わせながら、皆さん一人ひとり向かい合いながら、ともに聖書を読み、祈ることができれば‥‥と考えています。これが、今の私の心からの願いです。
ともに神さまの顔を仰ぎ、その神さまのもとで、一人ひとりを大切にし合って、ともに歩んでいきましょう。