2010.6.27

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「私につながっている」

廣石 望

イザヤ書48,12-16; ヨハネ福音書15,1-10

I

どんな共同体にとっても、統合性や一体感は大切です。現在、サッカーの世界大会が南アフリカで開催されています。いくつかの試合で、強いといわれたチームが弱小チームに負けました。大金星をあげたチームは、たいへんチームワークがよいのが特徴です。チーム全体に一体感があるのです。おそらくそれは教会共同体も同じです。サッカーと同様、教会や教団には守るべきルールがあります。他方で、サッカー選手たちがルールを守りながらも、じっさいによいプレーをしなければ意味がないのと同様、教会もそこに集う者たちが心をひとつにして、いっしょに汗を流して働かなければ、よい教会とはいえません。

「私は(まことの)ぶどうの木、あなた方はその枝である」という有名なイエスの言葉は、復活のキリストと教会信徒たちの関係を言い表しています。この言葉を手がかりに、イエスにつながっていることが教会共同体にとって何を意味するかを考えてみましょう。

 

II

じつは私は長い間、このイエスの言葉が今ひとつしっくりきませんでした。その理由もよく分かりませんでした。しかし先日、ある方からこういう話を聞きました。「うちの子どもが、あの聖書の言葉は変だ。病院で植物人間になった人にたくさんのパイプがつながっているみたいで気持ち悪いと言うんです」。これかもしれないと思いました。――まるでイエスさまの体にパイプでつながれて、栄養分をもらって実をつけるトマトのプランターのような私たち! 本当に、これが正しい理解なのでしょうか。

ギリシア語の原文を見ると、まったく違う表現になっていることに気づきます。例えば「私につながっていながら、実を結ばない枝は」(2節)は、原文では「私のうちにあって実を結ばない枝は」です。さらに「私につながっていなさい。私もあなたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように」(4節)云々とある箇所は、そのまま訳せば、「私のうちに留まりなさい。私も君たちに〔留まろう〕。ぶどうの枝が、木のうちに留まらなければ、自分では実を結ぶことができないように」です。つまり新共同訳は「私のうちに(in me)」という表現を、「私につながって」と意訳するのです。

なぜ、そんな意訳をするのでしょうか。おそらく「君たちは私のうちに宿りなさい。私も君たちのうちに宿ろう」というギリシア語表現が、分かりにくいと感じたからでしょう。なぜでしょう。それはきっと、キリストと信徒たちはそれぞれ別個の人格であって、ある人が別の人のうちに「留まる/宿る」などということはありえない。むしろ心と心が「つながっている」という意味に違いないと考えたからでしょう。

しかし優れた宗教哲学者であり新約聖書学者でもある八木誠一氏は、〈キリストの内側に私たちがいて、私たちの内側にキリストがいる〉とはまったく筋の通った言い方だと言います。とりわけヨハネ福音書やパウロには、キリストと信仰者の「相互内在」という論理があるからです(『イエスの宗教』岩波書店、2009年)。すなわちキリストとは、私たちがおかれている「場」の力を意味し、私たちが「キリストのうちに留まる」とは、私たちがキリストという磁場の中で生きるという意味です。そのとき私たちは、共同体としても個人としても、キリストをうちに宿す媒体に、キリストの働きが現れる「場所」になるわけです。だから、私たちの内側にはキリストが宿っている。この場所的ともいうべき発言を人格主義の立場からいわば誤解するがゆえに、「私につながっている」という意訳が生まれ、場合によっては、それが〈パイプ/プランター人間〉のイメージにつながるのかもしれません。

いずれにせよ「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」という比喩は、キリストと信徒共同体が相互内在の関係にあることを述べています。信仰共同体そのものがキリストという場の力(はたらき)を映し出す場所ですから、キリストと私たちは部分と部分の関係にはありません。むしろ教会全体がぶどうの木であり、その働きの根幹がキリストです。それはパウロが、教会がキリストの身体だと言ったのに近いですね。東洋人である私たちには、たいへん腑に落ちる理解です。

III

もう一つ、大切なことがあります。私たちのテキストは、いわゆる第二告別説教(15-17章)の冒頭箇所に当たります。そして「私はぶどうの木」という言葉で始まるユニットは、それに先立つ第一告別説教(13,31-14,31)の直前に位置する、いわゆる洗足物語(13章)を受けとめなおして、キリストと信徒たちの関係をより深く理解しようとしているのです。

洗足物語では、イエスが弟子たちの足を洗うことで、彼らとの〈きずな〉を作り出すことが中心です。その人格的な関係が、私たちのテキストでは、キリストと信仰者との相互内在という、「場」の力とそれを宿す「場所」の関係として再解釈されているのです。

 洗足物語のイエスは、「すでに身体を洗った者は、全身清い」(13,10)と言います。「清さ」とは救いの意であり、イエスによる洗足行為の到達点です。これに対して私たちの箇所でイエスは、「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言います(3節)。つまり「清さ」はこのユニットでは到達点というより出発点であり、「清さ」の先に何があるかを考えようとしています。

 では、清さの先にあるものとは何でしょうか。ヨハネのイエスはそれを、「豊かに実を結ぶ」という表現で示唆します(5節)。「実を結ぶ」とは、しばしば個々人が倫理的な行いをつみあげるという意味で用いられます。しかしキリストと信仰者の相互内在という文脈でみるなら、それは信徒たちが愛し合うことによって、キリストの働きをますます実現させ、共同体全体の命のクオリティーが高められてゆく、という意味にとることができるでしょう。そしてこの命の交流は、私たち個々人の力量というより、むしろ私たちに与えられた存在そのものによって可能になります。イエスが「私の愛にとどまりなさい」(9節)と言うのも、そういう意味だと思います。

 

IV

私たちはプロテスタント教会に属しています。プロテスタントはローマ・カトリック教会から分離独立することによって成立しました。しかも「プロテスタント」という名称は抽象概念で、じっさいには多数の教派・教会があります。この多様性には良い面もあると思いますが、それが自分たちの理解や主張の正しさを絶対視して、教会を数限りなく分裂させてきた結果であるとすれば、私たちはそれを見て恥じるべきです。

ヨハネ福音書もまた、教会共同体の危機の中で書かれました。そしてこの教会は立派な福音書を後世に残しましたが、分裂の危機をのりこえることができず、歴史から消えてゆきました。それが人間というものの限界なのかもしれません。それでも彼らの信じたことが真実であるなら、それは私たちにとって励ましであり、また警告です。「ぶどうの木」であるキリストを、教会は〈株分け〉してはならないのです。

現在、私たちの教会の牧師館では、新しい牧師先生ご一家を迎えるために、模様替えが進んでいます。村上先生ご一家が、教会学校の子どもたちや若者のために一室を開放してくださっていたのを、皆さんはご存知でしょうか。「よよりば」と名づけられた空間です。代々木上原教会の立ち寄り場というほどの意味です。そこには机とPC、冷蔵庫、そして旧上原教会の礼拝堂ベンチを改造して作った二段ベッドなどがありました。子どもたちはこの部屋が大好きで、しょっちゅうごろごろしたり、だべったりしていたのです。そして先週の日曜日、かつての教会学校の生徒、今は大学生になったK君を中心に、その部屋が整理され、二段ベッドは解体されて取り外されました。わが家の子どもたちは「よよりば」がなくなったと聞いて、とてもがっかりしましたが、取り外したのがずっと遊んでもらったK君だと聞いて、「だったらいい」と納得しました。その二段ベッドをつないでいた柱が、現在、教会学校の分級に使われている会議室のすみに立てかけてあります。そこには、そのときどきの子どもたちの背丈が、名前と日付とともに刻み込まれています。教会で仲良く、いっしょに育っていったことのしるしです。まるで、この柱は「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉の意味を、私たちに教えてくれているかのようです。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる