2010.6.13

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「神の憐れみ」

村上 伸

詩編103,6-13; 1テモテ1,12-17

 5月9日の礼拝で、私は1テモテ2章1節以下をテキストにして説教した。その折にも簡単に説明したことだが、この手紙の受取人であるテモテという人物は、パウロが第二次宣教旅行の途中、小アジアのリストラという町に立ち寄った際に知り合った若者である。パウロは、この青年の人柄や信仰を見込んで信頼を寄せ、その後の旅に同行させたばかりでなく、時々、重要な任務を与えた。1章3節に、「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと」、とあるのもその一例である。

 またパウロは、テモテを「信仰によるまことの子」(1章2節)と呼んで愛し、実際的な指導を与え、時に厳しく教えた。1章18節「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って」とある通りだ。

 ところで、新約聖書が書かれた頃の社会は、「父権社会」(patriarchy)とか「家父長制社会」と呼ばれることがある。父親の権威が重んじられて、それが社会の秩序を守る柱とされていた。こうした考え方は、今に至るまでいろいろな形で残っている。例えばドイツでは、中世以来、父なる神→領主→村の牧師→家庭の父親という縦の秩序が重んじられ、それが社会を支える柱であると信じられていた。しかも、これは男性中心的な原理であって、女性が入り込む余地はない。その頃、「頑固親父」というタイプがよく見られたものだが、あれは、偶々ある個人がそういう性格であったというよりも、社会が「権威的な父親像」を要求していた、ということであろう。「地震・雷・火事・親父」という言い方にも、そうしたイメージが反映されていたかもしれない。

 このような社会では、父親の権威はどうしても守られなければならなかった。それが傷つけられれば、家庭内の、あるいは社会全体の秩序は崩壊する。だから、父親は弱みを見せてはならなかったのである。

 パウロは、「信仰によるまことの子」であるテモテに対して、「父親のような権威」をもって指導に当たった。このことは、この手紙の至る所に明らかである。そして、彼が心から望んだのは、テモテが教会の中でキリストの「立派な奉仕者」として成長し、やがて「父親のような権威」を持つようになる、ということであった。4章12節に、「あなたは年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい」と命じているのがそれだ。続いて14節でも、パウロは、「あなたのうちにある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」と言っている。テモテは、若いけれども既に長老たちによる「按手」を受けており、従って「権威」を与えられている、というのである。

 このように、パウロはあの時代の人間の常として、基本的には「父権社会」を肯定し、それを前提した上で物事を考えていた、と言えるであろう。

 ところが、今日のところを読むと、パウロはそのテモテに対して、「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」(13節前半)と、過去の罪責を率直に告白している。言うまでもなく、これは彼がユダヤ教徒であった頃の生き方や実際に行った行為を指している。使徒言行録9章1-2節に、「サウロ(パウロの旧名)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」とあるのがそれだ。これはパウロの心の中に深い傷(トラウマ)となって残った。彼が自分のことを「罪人の中で最たる者」(15節後半)と呼んだのはそのためである。

 だが、こんなことは、黙っている方がよかったのではないか? 自分の罪責を口にしたりすれば、テモテとのこれまでの関係で彼が保持していた「父親のような権威」は、大きく傷つくのではないだろうか?

 今日の説教の最後に、私はこのことを問題にしたい。

 パウロは自らの罪責を告白した。だが、そのことによって彼の「権威」は損なわれただろうか? 彼の「信頼性」は揺らぎ、「尊厳」は無くなっただろうか?

 むしろ、逆ではないか。聖書に登場する重要な人物はだれでも、自分たちが「神の前では罪人である」ということを認め、率直に告白して赦しを祈り求めた人たちであった。そして、そのことによってむしろ、彼らの権威は確立したのである。アブラハム、ノア、モーセ、ダビデ、預言者たち、ペトロらの使徒たち、そしてパウロ。私たちはこの流れに注目しなければならない。

 「自分の義」を主張してどこまでも互いに争おうとするこの世界。「自己正当化」という不毛な砂漠。この中にあって、この流れは、砂漠を貫く一本の清冽な谷川である。私たちのいのちは、これによって潤され、養われる。これが、神の憐れみである。

 この大きな憐れみを信じるとき、私たちは自分で自分を正当化する必要はない。罪人が信仰によって義とされる! このことを信じればそれでいいのである。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(15節)。



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