2010.6.13

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「敵を愛しなさい」

村上 伸

マタイによる福音書 5,43-45

私が子どもの頃行っていた幼稚園には「イジメッ子」がいて、よく泣かされました。帰り道でもまだ泣いていると、妹が私の背中を抱いて、「ヒロちゃん、泣かないのよ」と慰めてくれたことがあります。それくらい「泣き虫」でした。

小学生になると、お父さんの仕事の都合でよく学校を変わりました。一年生に上がったのは船橋ですが、その年の夏にはもう満州の新京という町に引っ越し。2年生になると、今度は名古屋です。そこでは2回も学校を変わりました。3年生の2学期からはやっと東京に落ち着きました。目黒区の鷹番小学校です。そこには卒業まで3年半いたので友達もできたし、楽しかったのですが、数えてみると、小学校の6年間に5回、転校をしたことになります。中学・高校の6年間では、6回です。

転校はとてもイヤでした。どこにも「イジメッ子」がいたからです。中学生になってからのことですが、先生が「今度転校して来た村上だ」と言ってクラスに紹介して下さった直ぐ後で、教室の後ろのほうで、「今度来たヤツ殴るか」、と大声で相談する声が聞こえました。私は恐ろしくて、体を固くしていた。また、別の学校には、ひどく意地悪な先生がいて、何故かは分かりませんが、よく顔を引っぱたかれました。そんな時は、「お腹が痛い」と嘘をついて学校を休んだものです。

 

さっき、聖書を読んで頂きましたね。有り難う。

イエス様はそこで、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。

「敵」というのは、戦争のとき鉄砲や刀で殺し合う相手のことですが、べつに戦争でなくても、普通の暮らしの中にも「敵」はいます。「イジメッ子」のように、どうしても好きになれない人は、私にとっては「敵」でした。イエス様は、そういう人のことも「愛しなさい」と言われますが、これは難しい。「イジメッ子」や「意地悪な先生」はぜったい好きにはなれません。その人を「愛しなさい」と言われたって、無理です。

ところが、このイエス様の言葉を守って本当に実行した人がいました。キングさんというアメリカの黒人牧師です。この人は40年ぐらい前に亡くなりましたが、今生きていれば、私と同じ位の歳のお爺さんになっている筈です。

アメリカの黒人の先祖は、奴隷としてアフリカから連れて来られたのです。ですから、同じ人間として大切にされるということがありませんでした。バスに乗っても、「白人専用」という札がかけてある席には座ってはいけない。どこへ行っても追い出される。これを「差別」と言いますが、キング牧師はこういう差別を無くすために一生懸命努力しました。そのために白人の警官に憎まれてひどく殴られたり、悪いことをしたわけでもないのに何度も牢屋に入れられたり、自分の家に爆弾を投げ込まれたりしました。だから、キング牧師も自分をこのようにひどい目に遭わせる人たちのことを決して好きにはなれませんでした。でも、ある時、気がついた。イエス様は「敵を好きになりなさい」と言われたのではない。敵を「愛しなさい」と言われたのです。

イエス様はまた、神様は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」と言われました。私たちは時々、どうしても好きになれない人のことを、「善人」・「正しい人」・「味方」とは区別します。そして、あいつは「悪い奴」だ、「正しくない人間」だ、つまり「敵」だと決めつけて、憎もうとします。しかし、神様の目からご覧になるとそんな区別はない、とイエス様は言われます。どんな人でも同じ父なる神の子なのだ、というのです。

このことに心を留めるなら、「敵を愛しなさい」というイエス様の言葉の大切な意味も分かって来るでしょう。

「敵を愛する」というのは、自分に対してひどいことをする人に対しても、怒って直ぐ仕返しをするのではなく、少しガマンすることです。「待てよ、この人は何かムシャクシャすることがあってこんなに意地悪になってしまったのかもしれないが、この人だって私と同じ神様の子ではないか」。このように、その人の気持ちを分かってあげようとすること。それが「敵を愛する」ということです。

そして、「自分を迫害する者のために祈りなさい」というのは、「迫害する人だって元々はやさしい人だったかもしれない」と考え、その人が本当の自分を取り戻すように心を込めて祈るということでしょう。

 

[祈り]

神様、イエス様がどんな人でも愛して下さったように、私たちも愛の心を持って生きて行くことができますように祈ります。イエス様の御名によって。アーメン



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