16節後半に、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまる」とある。「とどまる」とは、「あなたがたの内にいつもある」(2章14節)、あるいは、「わたしたちと共にある」(2ヨハネ2節)という意味である。
「神が愛である」と信じ、この信仰を支えとして生きるとき、私たちと神との間には常に生き生きとした関係が保たれる。この深いつながりは、決して断たれない。神に愛されていると信じる限り、私たちはどんなに苦しい時でも、神に向かって「アッバ、父よ」(ローマ8章15節)と呼びかけることができるし、ルターが言ったように、私たちの「言葉にもならない、呻きでしかないような祈りでさえも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」のである。
これを受けて17節では、「こうして、愛がわたしたちの内に全うされる」と言われている。「全うされる」とはどういうことか?
ある童謡に、「呼べば答えるメンコイぞ」という一句がある。相手は小羊だったか、子馬だったか。とにかく可愛くて仕方がない。呼ぶと、向こうも応える。まことに幸せな瞬間だ。このように、愛は一方通行ではない。互いの交流である。愛し、愛される。あるいは、呼べば答える。心が通い合う。このような交流がなければ愛とは言えない。このことを、ヨハネは神と私たちの関係について当てはめているのである。
神が先ず愛を示された。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(3章16節)。それに呼応して、私たちも「神を愛する」(20節)。これによって、神と私たちの間の交流が完結する。「愛が全うされる」というのは、このことである。
これを受けて、17節では、「こうして愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます」と続けられる。
この「裁きの日」とは、終末の審判のことだ。「終末の審判」という思想は、福音書が書かれた頃は広く流布されていた。マタイ福音書25章などもその一つである。そこには「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置き」(32-33節)とある。その場で、各自がどのような人生を送ったかが問われる。お前たちは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」(40節)に何をしたか? 「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねたか」(35-36節)。あるいは、そんなことはしなかったか?
この問いに対して、すべての人はその場で申し開きをしなければならない。人生は、「いい加減に送っても別にどうってことはない」というようなものではない。最後には「どのように生きたか?」ということが真剣に問われ、一人ひとりが隠すことなくそれに答えなければならない。人生は真剣なものだ。そのことを考えると、私たちは「恐れ」を感じないわけには行かない。
私は最近、これまでの人生を振り返って身のすくむような思いに駆られることがある。ああ、なんと恥の多い人生だったことだろう! 恐らく、これからも罪と過ちを重ねて行く。そして、私のそのような弱さと恥は、終わりの日に神の前に出たとき、白日の下にさらけ出される。私はその時、ルカ福音書18章に出て来るあの徴税人のように、遠く離れて立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈ることしかできないであろう。
だが、そのような「恐れ」を抱いている私にも、慰めがある。それは、このような私の上にも神の愛の眼差しが注がれている、ということだ。その愛の故に、「罪人のわたしを憐れんでください」と祈ることだけは許されている。
この手紙の4章9節で、ヨハネは「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と言い、18節では、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」と続けている。この神の愛の故に、もう恐れる必要はないのである!
敗戦の前の年、陸軍幼年学校の生徒であった頃に体験したことを思い出す。私は満州にいた家族の許で2週間の短い夏休みを過ごした。ギリギリまで別れを惜しんでいたのが失敗で、最終の急行列車が途中で大幅に遅れ、釜山に着いた時は連絡船が出た後だった。どう計算してみても帰校門限には間に合わない。私は青くなった。軍隊では、門限に遅れると厳しく罰せられる。取り敢えず電報を打って事情を報告し、翌日一番の船で釜山を発ったが、八王子の学校に着いた時は門限の6時間後、深夜だった。私は週番士官室に行って申告した。厳しく叱られるだろうという恐れから、全身を固くしていた。ところが、意外なことに、その教官は「疲れただろう、今夜は汗をふいてすぐ寝なさい」と言っただけだった。誰もいない真っ暗な洗面所で体を拭き始め、ふと気がつくとその教官が後ろに立っていた。そして、黙って背中を拭いてくれたのだ。
私は、どんなにひどく叱られても仕方がない程の失態を犯したのである。だから、本当に恐れていた。だが、私の背中が暖かい大きな手で拭かれているのを感じたとき、その恐れが一度に無くなるのを感じた。今、その時のことを思い返して、「愛は恐れを締め出す」というのは真理である、としみじみ思うのである。
「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(21節)。そして、「兄弟を愛する」ということは、具体的には、「兄弟の心に恐れを抱かせない」ことではないだろうか。