2010.5.16

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「真理の霊」

廣石 望

ヨブ記13,13-19;ヨハネ福音書15,26-16,15

I

 来週は聖霊降臨祭(ペンテコステ)、教会の誕生日を祝う日です。聖霊の到来は、私たちに何をもたらしたでしょうか。まず何よりも文化や宗教の違いを超えて、人と人が心を通わせることができるようになりました。そして聖霊は、この世界で不当に権利を奪われた声なき人々とともに立つよう私たちを励まします。

 ですから教会は臆病風を吹かせてはなりません。発言すべきこと・行動すべきことがあるのに、また守るべき人々がいるのに、面倒を恐れて自分たちだけが教会の中に逃げ込むわけにはいきません。教会の壁の外にも聖霊は働くからです。同時に教会は、自己完結的なナルシシズムから自由であるべきです。自分たちが少数派で不利な立場に追い込まれているのは、自分たちだけが正しく外部は闇の世界であるからだ、といった幻想は棄てるべきです。むしろ目の前にいるのにそれと気づかないできた他者に対して、私たちの目と耳と心を開く姿勢が大切です。イエスを死者たちの中から起こした神の力は、そのことを私たちに可能にします。

II

 今日のテキストでイエスは、この世を去る直前に「弁護者」「真理の霊」と呼ばれる聖霊の派遣を弟子たちに約束します。それが語られている状況に注目してください。「人々はあなた方を会堂から追放するだろう。しかも、あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(2節)。つまり迫害状況です。

 最初期のキリスト教はユダヤ教内部のひとつの流派でしたが、後にユダヤ教から分離してゆきました。その最大のきっかけになったのが、紀元66-70年の第一次ユダヤ戦争です。ユダヤ人はローマ帝国の支配を跳ね返そうとして独立戦争を行いましたが、敗北しました。エルサレムのヤハウェ神殿は破壊され、神殿を中心とした民族体制は失われました。そこでユダヤ人は今度は律法と会堂を中心にすえたシステムに自らを再編成して、生き延びようとしました。その再編成のプロセスの中でナザレ派つまりキリスト教徒が、「異端」として排除されたようなのです。

 「十八祈祷(シェモネ・エズレー)」と呼ばれる祈祷文があります。イエス時代のユダヤ人が常日頃唱えていた祈りです。その第12祈祷(パレスティナ版)として、次のような祈りが付加されたと言われています。「背教者たちに望みが与えられないように。傲慢なる王国はわれわれの時代に根絶やしにされるように。またナザレ人たちとミーニームは一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義しい人々と共に書き入れられないように。主なるあなたは讃むべきかな、傲慢な者たちを卑しめ給う方よ。」――ここにいう「傲慢なる王国」とはローマ帝国を、「ナザレ人たち」はキリスト教徒を、そして「ミーニーム」とは背教者ないし自民族を誹謗するユダヤ人を各々指していると思われます。

 会堂連合からの追放は保護と支援の人的ネットワークからの排除を、さらにユダヤ人がローマ帝国で享受してきた特権の剥奪を意味しました。すなわち異教祭儀とりわけ皇帝礼拝への参加免除、そして兵役免除の停止です。税制に関しては、もっと入りくんだ事情があります。皇帝礼拝の拒否は処罰を、場合によっては死刑を我が身に招きよせる危険性がありました。

 ユダヤ教会堂が「ナザレ派」を追放したのは、彼らがユダヤ教民族主義の要である父祖伝来の律法に対して、あまり熱心でないように見えたからでしょう。異邦人の使徒となったパウロも、かつては同じ傾向をナザレ派に嗅ぎとっていました。「私は徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(ガラ1,13-14)。あるラビ(ユダヤ教の教師)の言葉として次のものが伝わっています。「神なき者たちの血を流す者は誰でも、〔神殿で神に動物の〕犠牲を捧げる者のようである」(民数記ラッバ21(191a))。――ユダヤ教ってひどい宗教だと思いますか。いいえ、キリスト教も「異教徒」や身内の「異端」をたくさん殺してきたではありませんか。どんな宗教も原理主義の傾向が強まれば、同じことをするのです。

III

 キリスト教徒がユダヤ教からの分離という状況に直面したのは、イエスの死後50年ほどたってからです。紀元90年代の成立と言われるヨハネ福音書は、同時代的な状況をイエスの物語に逆投影しつつ物語ります。「あなたがたも、初めから私と一緒にいた」(15,27)というイエスの言葉は、じっさいにはヨハネ教会の信徒たちに向けられた言葉です。彼らはイエスより二・三世代若く、生前のイエスに会ったことはありません。それでも迫害という経験を通してイエスの運命に等しくなり、それゆえ「あなたがたも、初めから私と一緒にいた」、つまりイエスの弟子であると言われているのです。また会堂の人々が嫌がらせや暴行行為に及ぶのは「父をも私をも知らない」からであり、そうなることは前から分かっていたとイエスは言います。じっさいには事後預言なのですが、ヨハネのイエスはそう言うことで、状況の過酷さからその衝撃力をとり除いています。

 イエスが父なる神のもとから遣わすという聖霊は、そのような迫害下にあって、イエスについて「証しをする」(15,26-27)とあります。「証言する」という意味の法律用語です。マルコ福音書に、「〔あなた方が〕引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」(マルコ13,11)とあるのと基本的に同じです。つまり、君たちが迫害の中で行うキリスト証言は聖霊が語る言葉なのだ、という意味です。

 それでもイエスが去ってゆくことは弟子たちを「悲しみ」で満たし、言葉を失わせます。彼らはイエスに尋ねることすらできません(5-6節)。イエスがこの世にいた間は、この世による拒絶はイエスが受けとめてくれましたが、イエスがいない今は防ぎようもなく弟子たちを直撃するからです。その中でイエスは、私が去ってゆくことが聖霊を派遣するための前提条件だと言います。いったい聖霊の働きは具体的に何なのでしょうか。

IV

 今日のテキストでは、聖霊の働きはこの世界に対して(8-11節)と教会に対して(12-15節)の二つに分けて書かれています。

 世界に対して、聖霊は「世の誤りを明らかにする」とあります。これは宣教というより、審判の言葉です。この世界の「罪」とはイエスを信じないことだとあります。しかしこの発言は少し差し引いて考えてよいかもしれません。追い込まれた少数派が生き延びようとしているのです。そういうことを言う前に、この世界に生きる他の人々に対して心が開かれていることが大切です。「義」とは、イエスが神のもとに行くことで、彼が神の子であることが明らかになり、イエスに栄光が帰される。それが神の目には義しいという意味でしょう。さらに「裁き」とは「この世の支配者」つまりサタンが断罪されることです。新共同訳は「断罪される」と訳しますが、原語は完了形すなわち「すでに断罪されてしまっている」という意味です。ヨハネ福音書にはイエスが十字架にあげられた瞬間が、父のもとにあげられた時であり、それはサタンに対する審判が完全に遂行された時でもあるという理解があるからです。つまり通常ならば、サタンは世界の終わりが来て初めて裁かれるのですが、その審判がここではイエスの歴史と聖霊の働きの中に移されています。

  他方で聖霊は、教会共同体に対しては「あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」と言われます。それによって信徒たちは、やがて自分たちを襲うであろう運命を神が備えられた救いに至る運命として「理解する」、つまり持ちこたえることができるようになります。聖霊はイエスが遣わす霊であると同時に神の霊です。ですから窮地に追い込まれた教会共同体はへこたれず、語る続けることをやめません。

 鈴木文治さんという方が編集した『ウガンダに咲く花』という本があります(コイノニア社、2009年)。私たちの教会と同様、アジア学院の学生さんを受け入れたある教会の教会学校の子どもと、その学生さんの故郷ウガンダの少女との心の交流の物語です。

 ウガンダからアジア学院に留学した方はサンテグさんと名です。故郷で、内戦のために親や住む家を失った子どもたちの施設を運営しておられます。彼の紹介で、ウガンダの子どもたちと日本の教会学校の生徒たちの文通が始まり、10歳のとき両親を失ったナマトブさんという少女と、千佳さんという教会学校の生徒がお友だちになります。二人は大好きなことや美しい風景などについて手紙を交わし、互いに心を通わせます。しかしナマトブさんはわずか12歳で亡くなります。エイズに感染していたからです。彼女の最後の手紙が、サンテグさんを通して千佳さんのもとに届きました。

「千佳さん、日本はもう寒くなったのでしょうか。雪が降る日本を想像しています。いつか千佳さんと日本で会う約束をしましたね。それは私の心の中で、光のように輝くものでした。でも、その約束は果たせそうにありません。私は今、とても重い病気で、病院に入院しています。…
私は死ぬことがとても恐いのですが、神様がいつも守っていてくれることを信じています。聖書の中に〈死んでも生きる〉という言葉があることを知りました。死んでも神様が守ってくれるのです。信じないでどうしましょう。
千佳さん、ありがとう。私の友達になってくれて。あなたがいて、私は生きる元気をもらいました。・・・私が死んだら、いつかウガンダに来て、二人で見るはずだったアルバート湖の美しい夕日を眺めてください。また私の名前の由来である花も見て下さいね。そしてウガンダの子どもと日本の子どもが、私たち以外にも友達になるようにして下さい。あなたと出会って、私はあなたと出会うために、そして神様を信じるために、生まれてきたことを知りました。本当にありがとう。
 ナマトブ」

 千佳さんは衝撃を受けて、教会学校に来ることができなくなります。「子どもの病気を守れない神様なんて神さまではありません。ほんとうは神様なんていないんじゃないですか」。――しかし彼女は、やがて立ち直ってゆきます。

 「あなた方の心は悲しみで満たされている。しかし私が去っていかなければ、弁護者はあなた方のところに来ない。その方が来れば、世の誤りを明らかにする。真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」――ナマトブさんと千佳さんの間で起こったことは、すべてヨハネ福音書に書かれているではありませんか。私たちのもとにも聖霊が来ますように!



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