2010.5.2

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「キリストの平和」

村上 伸

イザヤ書48,17-22;コロサイの信徒への手紙3,12-17

 コロサイという町は、エフェソから東に200kmほどの内陸地にあって、かつては東西交通の要衝として大いに栄えたという。ここに、キリスト教に改宗した異邦人(非ユダヤ人)を主なメンバーとする教会があった。その信徒たちに宛てて、パウロが(あるいはパウロの名を借りた誰かが)この手紙を書いたのである。

 コロサイ教会の信徒たちの中には、キリスト教に改宗はしたものの以前に信じていた宗教の影響から中々脱け出せずにいた人々もいたようだ。G・ボルンカムという新約聖書学者によれば、それは、「グノーシス化したユダヤ教」と、「ペルシャの宗教」が混じり合ったものに「バビロンの天文学的な要素」が加わった異教であったという。それを、コロサイ書の執筆者は、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」(2章8節)とか、「偽りの謙遜と天使礼拝」(同18節)などと、かなり辛辣な言葉を使って批判している。このような異教の「巧みな議論」に惑わされる人が少なくなかったという事実を、相当気にしていたらしい。

 そこで、彼は、「巧みな議論にだまされないように」(2章4節)と警告し、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着ける」(3章9-10節)ように戒め、また、キリスト者は「キリストと共に死に」(2章20節)、「キリストと共に復活する」(3章1節)のだ、と教え諭したのである。

 言うまでもないことだが、今から2000年も前のコロサイ教会の問題は、21世紀の日本に生きている我々が今直面している問題と同じではない。紀元第1世紀後半のコロサイ教会にとって戦うべき相手は、周囲で相変わらず影響力を持っていた「異教」であったが、現代の日本の教会は別の相手と対決しなければならない。だが、根本的な問題は昔も今も共通している。それは、イエス・キリストに示された神の意志に反する生き方とは対決しなければならない、ということである。

 今日のテキストは「教会の生活」をテーマとしているが、そこで教えられていることの中心は、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行いなさい」(17節)という点にある。

 以下に、「教会生活」について少し詳しく考えたいのだが、その際、先ず大切なことは、12節前半の「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから…」という言葉だと思われる。十戒が、「わたしは主、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20章2節)という事実の確認から始まっているように、ここでも、「神があなたがたを選び、聖なる者とし、愛された」という喜ばしい事実、つまり「福音」の確認から始まる。我々の教会生活は、先ず何らかの規則や戒律から始まるのではなく、繰り返して「福音」を確認することから始まるのである。

 続いて、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい」(12節後半)と勧められている。特に、最初の「憐れみの心」という言葉に注目したい。これは、口先の同情のことではない。原語は、「内臓が震えるように心が動かされる」というような意味だ。保坂高殿(ほさか・たかや)氏は「心底からの憐れみ」と訳したが、この方が原語により近いだろう。預言者エレミヤの、「わたしのはらわたよ、はらわたよ、わたしはもだえる。心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙してはいられない」(エレミヤ書4章19節)という生々しい言葉を思い起こす。正にそれなのだ。我々の教会生活においては、言葉であれ行いであれ、血と肉が通っていなければならない。

 このように考えてくると、我々の対人関係は、結局、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)という言葉に尽きるのではないか。

 先週、Sさんの結婚式における式辞の中で、私はボンヘッファーが親友ベートゲの結婚式に際して獄中から送った説教の一部を紹介した。彼は、ローマ書15章7節「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」という聖句を引用した後で、こう続けている。「一言で言えば、あなたがたの多くの罪が赦されている、その赦しの中で一緒に生活しなさい、ということです。それなしにはいかなる人間の交わりも、いかなる結婚も決して長続きするものではありません。互いに相手に対して権利を主張せず、互いに相手を批判したり裁いたりせず、互いに相手を見くださず、決して相手に責任を押し付けず、あるがままに相手を受け入れて、日々、そして心の底から赦し合いなさい」

 ボンヘッファーは、今日のテキストを最も素晴らしい仕方で適用したと思うが、無論、それは結婚に限らない。牧師の交代という大きな転機を迎える我々の教会にとっても、これは実に大切な戒めではないだろうか。

 さて、今日の説教の最後に、私は、特に15節の言葉を強調したい。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」

 「キリストの平和」とは、具体的にはどういうことであろうか? 学者たちによれば、我々が今読んでいる「コロサイ書」は本来、「エフェソ書」と密接な関係にあるという。その「エフェソ書」2章に、キリストは「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現した」(14-15節)とある。これこそが、「キリストの平和」の内容であると言わなければならない。



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