2010.4.18

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「私は主を見ました」

廣石 望

民数記27,15-23;ヨハネ福音書20,11-18

I

 人は誰でも生きていれば、喜びと並んで、悲しみや苦しみを経験します。仏教では生老病死そのものが「苦」と見なされます。どんなに豊かな時代であっても、それは変わりません。私たちの国には、かつて「一億総中流」と言われた時代がありました。しかし昨今はすっかり様変わりした印象があります。「格差社会」「貧困(の世代間連鎖)」「年間3万人超の自殺者」「無差別殺人」あるいは「子どもの虐待」など、暗い話題が溢れています。そして、これらの言葉が指し示す現実は、けっして他人事ではありません。それは身内から犯罪の被害者・加害者が出る場合を含めて、私たちのすぐそばにあります。みな自分の幸せをつかもうと必死に努力しますが、どんなに成功しても決して安心できない、いつ何が起こるか分からないという不安と背中合わせで、私たちは暮しています。

 こうした喪失感や不安に対して、イエスの復活というキリスト教のメッセージは、何を言うことができるでしょうか。マグダラのマリアに復活者イエスが顕現したという物語を手がかりに、そのことを探ってみましょう。


II

 マグダラのマリアは実在の歴史上の人物です。そして彼女は生前のイエスを知っています。

 彼女の出身地「マグダラ」はガリラヤ湖西北岸にある町で、アラム語で「ミグダル・ヌーンナヤー/魚の塔」と呼ばれます。ギリシア語名は「タリケイアイ/魚の塩漬け工場」。ともに「魚」という語が出るのは、この町がガリラヤ湖でとれる魚を塩漬け、ないし塩汁付けにして、エルサレムはおろか、はるか遠くローマにまで輸出していたことに関係があります。この都市は、ユダヤ人の歴史家ヨセフスによれば人口「4万」を擁したとのこと(『戦記』II, 608他)。にわかには信じがたい数字ですが、数キロ離れた同じガリラヤ湖西岸のティベリアに都を移した領主ヘロデ・アンティパスが、この新しい行政の中心地と連動させるかたちで、経済重点地区として開発促進した町であることに変わりはありません。

 この町の出身であるマリアについて、彼女がイエスから「七つの悪霊」を追い祓ってもらったという伝承があります(ルカ福音書8,2)。その後の彼女は、放浪生活を送るイエスに従ったようです。すなわちマルコ福音書によれば、彼女はイエスの母マリアその他の女性たちとともに、イエス一行のエルサレム巡礼にも同行し、彼の捕縛にさいして男性弟子がみな「逃げた」後も、遠くからではあるがイエスの磔刑死を見守り、遺体が埋葬された墓の場所を見とどけ、さらに安息日が明けた日曜日の朝に墓所を訪問しました(マルコ15,40.4716,1)。

 マリアの家族・親族について、新約聖書には一切言及がありません。イエスについては両親や兄弟姉妹の名前まで分かっているのですけれど(マルコ6,3参照)。マリアにとり憑いていたという「七つの悪霊」は重い精神障害を思わせます。当時の社会では、大きな穢れを意味したでしょう。すでに生まれ故郷にあって、マリアは親族共同体から排除されていたのではないでしょうか。都市マグダラの急激な経済発展の中でとり残されて貧困化した地元住民、あるいは周辺から流入してきた貧困層の娘というイメージも浮かんできます。

 彼女がどこで、同じガリラヤのナザレ村出身であるイエスと出会ったかは不明です。おそらくすでに〈無縁者〉だったのでしょう、「父の家」を棄てたという意味では似たりよったりのイエスに受け入れられて、マリアは彼の道行きに同行しました。そのイエスが、エルサレムで処刑されて没した。イエスの死は、マリアにとって何を意味したでしょうか。最初は親族に棄てられ、次にはたまたま拾ってくれたイエスに先立たれ、つまり今度こそ最終決定的に神(/この世)から見棄てられた、と感じたのではないかと想像します。


III

 マグダラのマリアは、本当にイエスの顕現に接したのでしょうか。確証はないものの、おそらくそうだろうと思います。

 復活したイエスがマグダラのマリア個人に現れたことを証言するのは、このヨハネ福音書の物語以外にありません。最古の福音書であるマルコ福音書は、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」が、空っぽの墓で「イエスは起こされた」という天使の伝言を聞くと、肝をつぶして「逃げ去った」と言います(マルコ16,1-8参照)。つまりマリアへの顕現は物語られないままです。そのマルコ福音書を資料として自分の福音書を書いたマタイは、これではいかにもまずいと思ったのでしょう。天使の伝言を受けて、弟子たちのもとに急ぐ「マグダラのマリアともう一人のマリア」の前方に、イエスが顕現したと修正します(マタイ28,9)。ヨハネ福音書の著者が、マルコやマタイによる福音書を知っていたかどうかは不明です。しかし私たちの物語は実質的に、マルコ型の物語に対する修正のヨハネ版になっています。

 他方で、マリアへの顕現があったことをまったく否定することもできません。そもそもマルコ福音書の奇妙な叙述そのものが、女性たちへの顕現について語るマルコ以前の伝承に対する、彼一流の修正なのかもしれません。パウロが引用する、エルサレム原始教会に遡る顕現証言者のリストには、イエスは「ケファに現れ、その後十二人に現れ、次いで五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ・・・」とあります(1コリント15,5以下)。なるほどここに女性の名は一切出ませんが、「兄弟たち」という表現は女性を含むと考えてさしつかえありません。ギリシア語は文法上の男性形を用いて、人をさすからです。さらに使徒言行録によれば、エルサレム原始教団には、十二人と並んで、「婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たち」が参加していました(使徒言行録1,14)。イエスの親族はガリラヤから移住したという含みです。長男が犯罪者として処刑された家族にとって、もはや故郷には居場所がなかったのかもしれませんね。そして「婦人たちやイエスの母マリア」というときの「婦人たち」の中に誰が入るかと問われれば、真っ先にマグダラのマリアが思い浮かびます。

 そんなわけでマリアへのキリスト顕現は歴史的に確証がないものの、その可能性はかなりあると思います。


IV

 他方で私たちの物語は、新約聖書に保存されたその他の顕現伝承といろんなモチーフが共通しています。〈女性たちのお墓参り/空っぽの墓/天使/弟子たちへの伝言〉という物語の枠は、マルコ福音書の物語と同じです。また〈復活したイエスに出会っても最初はそれと分からなかったけれど、後から気づいた〉というモチーフは、エマオの途上にある二人の弟子にキリストが顕現したという、ルカ福音書に保存された全く別の物語(ルカ24,13以下)と共通しています。さらに「私は主を見ました」というマリアの発言の「見る」という動詞は、原始キリスト教で共通して用いられる復活言語に属します。「ケファに現れ」云々とあるときの、「現れた」と訳されるギリシア語の原義は「見られた」ですし、パウロ自身も「私は使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか」と発言しています(1コリント9,1)。

 ですから私たちの物語は、史実そのままの報告というよりも、むしろヨハネ福音書を生み出した共同体が、原始キリスト教に共通するいろいろなモチーフを用いながら、マグダラのマリアに託して、自分たち独自のキリスト体験を象徴化したものと理解することが可能です。この物語の特徴をいくつかあげて、その意味を考えて見ましょう。


V

 まず、マリアは「泣いて」います。これは愛する者が失われたことに対する悲嘆の表現です。ヨハネの共同体は、イエスが不在であることの意味を、闇のような苦しみの中で問い続けたのだと思います。

 次に、マリアは二度「振り向き」ます。一度目は自ら振り向きますが、そこに立っているのがイエスだとは気づきません。墓地の園丁だと思っているからです。しかし背後から「マリア」と名を呼ばれたとき、それがイエスであると「分かり」、二度目に振り向きながら叫びます、「ラッブーニ/私の先生!」。この演出もまた、ヨハネ教会の信徒たちの経験を反映しているのではないでしょうか。つまり自らの過去を振り返っても、イエスが不在であることの意味は見えなかった。しかし不在であるはずのイエスから呼びかけられるという不思議な経験を通して初めて、イエスとの予期せぬ再会が生まれたという。

 第三は、「私にすがりつくのはよしなさい」というたいへん有名なイエスの言葉です(17節前半)。以前の口語訳聖書では、「私にさわってはいけない」と訳されていました。いったいマリアはイエスに抱きつく前とその後の、どちらの状況で復活のイエスから制止されたのでしょうか。「さわるな」は抱きつく前、「すがりつくのはよしなさい」はその後を想定しているように思われます。ギリシア語原文は、どうも後者であるように感じます。この言葉の直前に、「マリアはイエスに触れようと突進した」という文章を補う写本もあります。ご存知のように、「Noli me tangere/我に触れるな」というラテン語のタイトルで、たくさんの有名な宗教絵画が描かれています。マリアの手がイエスの身体に重なっていたり、いなかったりします。この世の生と死を超越したイエスの身体に「触れる」というモチーフは、宗教的にとても深い意味をもっています。

 続いてイエスは、制止の理由をこう説明します。「まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(17節後半)。これはヨハネ共同体の復活体験の集約的な表現の一つです。イエスの死は、彼の父なる神が、私たちの神であることを意味したできごとであったという理解です。「父のもとへ上る」という表現は、父と一つであるイエスの霊としての「聖霊」が、やがて共同体に派遣されることを予感させます。私たちも今、教会暦にいう復活祭と聖霊降臨祭の間にいます。聖霊の派遣とは、不在のイエスが私たちと共にいるという経験を言語化したものです。――「私にすがりつくな」という制止命令は、イエスの現臨という経験が決して望んで得られるものではなく、涙も涸れ果てた末に、あるとき忽然として生じる出来事であることを暗示しているように思われます。


VI

 「私は主を見ました」――このマリアの言葉は、絶望の淵に沈んだ彼女の再生を告げています。この再出発の現代における並行事例と思われるものを、一つご紹介します。

 最近、坪井節子さんという弁護士の方が書かれた書物を何冊か読みました。彼女は私たちと同じ日本基督教団に属する教会の信徒で、「カリヨン子どもセンター」という十代の子どもたちの人権支援を行うNPO法人の理事長です。相談や法的支援と並行して、逃げ場を失った子どもたちのためのシェルターを運営しておられます。

 彼女によると、現代日本では離婚、貧困、病苦などによる家庭崩壊がすさまじく、不安と絶望にさらされた大人たちの「八つ当たり先」となった子どもの虐待件数はうなぎのぼりだそうです。「学校でのいじめや不登校、教師との軋轢、家庭内の不和、虐待、貧困。社会の中での差別、障害、犯罪等々。自分の力ではどうにもならなくなり、自分のまわりには相談できる大人も見つからず、苦痛にうめきながら、悲しさにうちひしがれながら、助けを求めている子どもたち」――そのような子どもたちに「出会ってしまった」と彼女は言います。

 そして大人はしょせん無力であり、子どもの人生を代わって生きてあげることも、その重荷を担ってあげることもできないし、ましてや子どもの人生の問題を解決してあげるなどと思いあがるのは、とんでもないことだと。それでも「子どもを見捨てず、そばにいる。そしてあなたと出会えてうれしい、あなたに生きていてほしいというメッセージを、いっぱい伝える。それくらいなら、無力な大人にも、できる」と彼女は言います(カリヨン子どもセンター他・編『子どものシェルターの挑戦』、明石書店、2009年より)。

 彼女はクリスチャンです。一般書ではそのことは背景に退いていますが、キリスト教系の出版社から公刊された書物の中では、彼女が虐待された子どもたちと接するときに、心の中で何を思っているかが書かれています。「正直に言うと、話しながら、『イエスさま、この真ん中にいてください』と祈っているのです。私は今、何を言ったらよいかわからない、でもこの子に語るべきことばを教えてください、と祈りながら面接しています」(坪井節子『子どもたちに寄り添う』いのちのことば社、2007年より)――この「イエスさま、この真ん中にいてください」という祈りは、復活信仰そのものではありませんか。

 大人たちから、つまり社会から排除されて混乱と自暴自棄の中にあった子どもたちが、シェルターの中で初めて〈守られる〉という経験をすることで、あるときそれこそ忽然として心の扉を開く瞬間があるそうです。「真っ暗だった子どもたちの心の世界から、一筋の光が射し出てくる瞬間」、スタッフたちのいう「カリヨンマジック」の瞬間が。そのようすについて、坪井さんはいくつか事例を紹介しておられます。その一つに、次のような子どもの言葉があります。

風の音が聞こえる。雨の音が聞こえる。夕食のにおいがする。景色に色がある。木漏れ日ってきれいだね。初めて空を見たよ。(前掲『子どもシェルターの挑戦』より)

 私にはこの言葉が、「私は主を見ました」というマグダラのマリアの姿に重なって見えます。「私は主を見ました」というマリアには、世界が初めて、この子どもの言葉のように見え始めたに違いないと。これが復活のイエスとの出会いです。



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