復活後第1主日は、古来、「クヮシモドゲニティ」(ラテン語で「生まれたばかりのように」の意)という名で呼ばれた。この日、礼拝が始まる時、『ペトロの手紙一』2章1-2節の「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」という聖句が朗読されたところから、この名がついたと言われている。
ところで、先週の復活祭礼拝には高橋英二・寿賀子夫妻が間もなく一歳の誕生日を迎える赤ちゃんと一緒に出席しておられた。礼拝の後で私はそのことに気づき、親子室に行ってその子を抱かせてもらった。柔らかく、暖かく、そして、しっとりと重い赤ちゃんを腕に抱えて、私は幸せを感じていた。その子はもう「生まれたばかり」とは言えない位に大きくなり、歯も生え始めているのだが、私は心の中で、「次の日曜日は<クヮシモドゲニティ>だ」と言い、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」という聖句を思い起こしていた。
今日、私たちは先週ご一緒に祝ったイースターの喜びを反芻し、味わいながらここにいる。説教テキストとして指定されたのは、同じ『ペトロの手紙一』1章3-9節である。これも嬉しいことである。
先ず、この手紙について最小限知っておくべきことを述べておきたい。
著者は「使徒ペトロ」(1節)と書いてあるが、いろいろな理由から、別の人と考えられている。恐らく、ペトロの権威を借りたのであろう。手紙の受取人は、1世紀の終わりごろ小アジア地方(現・トルコ)に散らばって暮らしていたキリスト教徒たちであろう。彼らは、6節後半に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが・・・」とあるように、迫害を受けて苦しんでいた。迫害と言っても、皇帝の命令によってローマ帝国全土で組織的に行われた大規模な迫害ではなく、地方で起こったキリスト教徒への非難・中傷、今日風に言えば「バッシング」であったろう。それでも、苦しかったのは同じである。
これら、迫害に苦しむキリスト教徒たちを、著者は「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(1章1節)と呼ぶ。注解書によると、「離散して」とは、故国を離れ、あちこちに散らばって生きる人々、つまり「離散(ディアスポラ)のユダヤ人」のことらしい。「仮住まいをしている」とは、一時外国に滞在している寄留者、法的な市民権を持たずに他国で生活する「旅人」のことだ。それも、少数の特殊な人たちがそうだというのではなく、著者が2章11節に「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから・・・」と書いているように、キリスト者は本質的に「旅人」であり、「仮住まいの身」なのだ、と言うのである。
先祖アブラハムは、故郷を捨て、「行く先も知らずに出発し」(ヘブライ書11章8節)、「他国に宿るようにして約束の地に住み」、「幕屋に住んだ」(同9節)。彼は、「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望し」(同10節)、「天の故郷を熱望していた」(同16節)。「約束されたものを手に入れなかったが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」(同13節)。
キリスト者とは、そういう人たちなのである。自分はまだ「天の故郷」に向かう旅の途上にある。はるかに目的地を望み見ながら、まだテント暮らしをしている。そのような人間だと自覚している人たち。自分にとって好ましい場所を見つけたら、直ぐにそこに腰を据えてしまい、テコでもその場所から動こうとしないというのとは違う。思想や信仰の領域でも、同じことが言えるであろう。
カール・バルトは、自らの神学を「旅人の神学」(theologia viatorum)と呼んだことがある。―― 今のところ、自分は真剣にこう考えている。しかし、それは最終的な結論でも、絶対的な真理でもない。最終的な結論は、ただ神の御手の中にある。そのことを繰り返し自らに言い聞かせ、常に自分の考えを修正する用意があるということ。必要とあれば、いつ何時でも、テントを畳んで新し旅に出発する用意があるということ。これこそ、聖書が「地上ではよそ者であり、仮住まいの者である」と言う生き方であろう。
ペトロの手紙は、こうしたキリスト教徒たちを慰め・励ますために書かれた。彼らは、天の都を目指す旅の途上にある。そして、仮住まいの身で迫害の苦しみに耐えて生きている人たちである。彼らにとって何よりも力となったのは、主イエスは復活して今も自分たちと共に生きておられる、という信仰であった。
先週、私は、「イエスの愛と真実は、十字架上の死で終りにならず、その後の人類の歴史の中で、さまざまな人々の心の中で、彼らの言葉や行動の中で生き続けている」と述べた。復活とは、そういうことなのである。そして、この信仰こそ、旅の途上にある人々にとって何よりの支えとなる。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられました」(3節後半)言われている通りである。
だから、私たちも、イエス・キリストの復活によって生き生きとした希望を与えられる。それは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」(4節)という希望にほかならない。