皆さんと一緒にイースターを祝うのは、この教会の牧師としては、今年が最後になる。そういった思いを込めて、復活の主イエス・キリストの御名において、皆さんに心から挨拶したい。
今日の説教テキスト:コリントの信徒への手紙一15章は、パウロがキリストの復活について論じた箇所だが、とくに3節後半〜6節前半に注目したい。この部分は、3節前半で「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と断っている通り、パウロ自身が書いたものではなく、以前からこのような形で伝えられて来た伝承だ。「復活」に関する新約聖書中最古の資料と言われている。
内容は至って単純である。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」。
キリストの復活に関しては、大分時が経ってから書かれた福音書(マタイ、ルカ、ヨハネ)においては、さまざまな話が付け加えられている。むろん、「話に尾鰭がついた」といったことではない。それらも何らかの「真実」を証ししている。
だが、この最古の伝承には、そうした「物語的な」要素は全くない。ブッキラボウに、「聖書に書いてあるとおり三日目に復活した」と言うだけである。そして、それを「現れた」という表現で言い直す。
「現れた」というのはどういうことだろうか?
原語の「オフセー」は、「見られた」と訳すこともできる。そこで、これを「幻を見た」という意味で理解する人々もいる。しかし、私にとっては、ドイツの神学者ヴィリ・マルクスセンの解釈が最も説得的と思われる。すなわち、「現れた」という言葉を、彼は「イエスの事柄はなおも前進する」(Die Sache Jesu geht weiter)という意味で理解するのである。イエスの事柄、つまり、彼の愛と真実は、十字架で死んだときに「お終い」になったわけではない。それは、なおも生き続けている。その後の人類の歴史の中で、さまざまな人々の心の中で、彼らの言葉や行動の中で生き続けている。復活とは、そういうことである。
先週、鈴木伶子さんから聞いた話を紹介したい。
彼女の父・鈴木正久牧師に、『王道』という自伝風の作品がある。没後直ぐに出版された本の中に、「戦争責任告白」に関する遺言ともいうべき文章と共に収録されている。ご両親のことや、少年時代の思い出から始まって、入信に至る経緯、そして、神学校に入るまでのことを綴ったもので、小著だが、多くの人に感銘を与えた。鈴木牧師の本領は、教会に対する「妥協のない真実さ」にあったと思うが、それがどこから来たかは、この本を読めばよく分かる。
ところで、この本を既に英語に翻訳したアメリカ人がいたのである。その人の娘さんが、「広島平和記念館」館長スティーブン・リーパーさんと結婚して今、広島にいる。エリザベスさんという。その人から伶子さんに電話があって、父の90歳の誕生日の記念に『王道』の英訳原稿を出版したいと、諒解を求められた。彼は以前、宣教師として名古屋にいたことがあるが、今は高齢に加えてパーキンソン病で意識もはっきりしないことが多いと、その娘さんは言う。
その電話による対話に、今ではそういうことも技術的に可能になったのだが、彼女のお父さんも加わった。ところが話をしている内に、その元宣教師が「驚くほど明晰な記憶と理解力」(伶子さん)を取り戻した。そして、『王道』を英語に翻訳するきっかけを与えてくれたのは「ムラカミ」という牧師だった、と言ったというのである。伶子さんが「今自分が属している代々木上原教会の村上牧師は、昔、愛知県にいた」と言うと、即座に「それだ、そのムラカミだ」と反応したという。
私は、『王道』を英語に翻訳するきっかけを彼に与えたかどうか、覚えていない。しかし、ウォルター・ボールドウインという、その米国人宣教師には実に懐かしい沢山の思い出がある。「南長老派」という、かなり保守的な教会から派遣されてきた人で、あまり器用ではない。従って、日本語の会話もそれ程上達しなかったが、心が広く、誠実な人柄で、よく読み、私たち若い牧師たちの意見もほぼ完璧に理解してくれた。何かの議論の中で、私が鈴木牧師のことや、『王道』に記された彼の入信の経緯などについて話したことはあるかもしれない。そして、あの人だったら、鈴木牧師の信仰や神学に心を動かされて『王道』の英訳を思い立ったとしても不思議ではない。
先刻、私は、「イエスの愛と真実は、十字架上の死で終りにならず、その後の人類の歴史の中で、さまざまな人々の心の中で、彼らの言葉や行動の中で生き続けている」と言った。復活とは、そういうことなのである。
鈴木牧師という人は、Sさんという青年の真実さを通して、教会の根底にある「真実なもの」に目覚め、それが主イエス・キリストから来たことを信じるようになり、そして終生、妥協のない真実さで教会に仕えた人物である。そのことが私を動かし、ボールドウイン宣教師を動かし、そして今、彼が翻訳した『王道』が出版されて、アメリカでも多くの人の手に渡ろうとしている。これは、キリストが復活して今も生きておられるということの具体的な例証ではないだろうか。