2010.3.7

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「主に目を注ぐ」

村上 伸

詩編25,15-21;コリントの信徒への手紙二 1,8-11

 先週の週報に書いたように、受難節の各主日にはそれぞれ美しいニックネームがついている。いずれも、その日の礼拝の最初に朗読された聖句に因む名だが、今日の受難節第3主日は、いささか奇妙なことに、「目」(オークリ)と名づけられている。これは、詩編25編15節「わたしはいつも主に目を注いでいる」という聖句から来たのである。―― よい機会だから、私は今日は、この詩編をテキストに説教したい。

 この詩には「敵」が登場する。敵とは、一般的には「迫害者」のことだが、もっと具体的に、法廷でこちらの有罪を立証しようとする者や、そのために偽りの証言をする人々のことだと考える学者もいる。先日、冤罪で長年刑務所に入れられていた菅家さんのことが新聞やテレビで報道された。彼は釈放後、自白を強要した警察官や法廷で有罪を宣告した検事たちに対して怒りを露わにし、「あの人たちは許せない」と語った。菅家さんにとって、彼らは正に「敵」であったのだろう。

 だが、具体的に「あの人」と特定できないような「敵」も存在する。例えば、我々の「社会の仕組み」は、社会的弱者に対してそれほど優しくはない。しばしば敵対的である。「貧困ビジネス」なるものがあって、貧しい人々をさらに搾取することによってかなり儲けていると聞く。高齢者を標的にした詐欺も横行している。我々の社会は、弱者に対して敵対的な仕組みになっているのではないかと疑いたくなる。

 その他に、「自然災害」のことも考える。最近、ハイチやチリなどで続いて巨大な地震が起こった。特に、大地震によって起こった津波はチリ沿岸の町々に甚大な被害を与えたばかりでなく、地球の反対側にある日本をも脅かした。

 自然は、何もない時は実に美しく、私たちをやさしく育んでくれるように見えるが、時として、突然牙を剥いて人間に襲いかかる。その場合も、弱い者たちが餌食になる。そういう時には、自然の猛威は私たちの「敵」になる。

 この詩人は、このように「敵が多い」人生の辛さ・切なさを身に沁みて感じていたのであろう。「御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます」(19節)と神に訴える。この言葉は切実である。

 だが、同時に彼は、このように多くの「敵」に囲まれた世界・辛いことの多い人生にも、その中を貫いて一本の道が通っていることに気づいていた。それは、「主の道」である。「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。裁きをして貧しい人を導き、主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって、主の道はすべて、慈しみとまこと」(8-10節)。このことを彼は確信していた。だから、「主よ思い起こしてください、あなたのとこしえの憐れみと慈しみを」(6節)と祈ったのである。

 ユダヤ人は祈る時、両手を広げて上へ差し伸べ、目を天に向けた。多くのキリスト教徒の祈りの姿勢はその反対で、頭を垂れ、両手を合わせ、目を閉じる。どちらの場合も、主なる神に心を向けていることに変わりはない。「主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださる」と信じて心をただ神に向ける。それが祈りである。「わたしはいつも主に目を注いでいます」という15節の言葉は、そういう意味であろう。

 さて、「主に目を注ぐ」ということについてもう少し考えたい。

 この場合、詩人が立っている場所は「下」である。「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です」(16節)と告白していることからも分かるように、彼は社会的弱者として底辺に立っている。彼は、「悩む心」(17節)を持ち、ひっきりなしに「痛み」()を感じている。そこから、「とこしえの憐れみと慈しみを思い起こしてくださる」(6節)神を見上げ、どん底にいるこの私に目を留めてくださいと呼びかける。彼は、このように「敵が多い」人生の辛さ・切なさを、身に沁みて感じていたのであろう。それ故、「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を」(18節)と祈ったのである。

 詩人は、底辺から、下から、神を見上げている。ヨブや「主の僕」(イザヤ書53章)と同じ「下からの」目線である。

 ところで、ボンヘッファーが、「下からの視線」と題する未完の草稿を残したことは良く知られている。この未完成の断片は、次のような言葉で始まっている。

 「われわれは、世界史の大きな出来事を一度下から、つまり、社会から閉め出された人々、疑われた人々、虐げられた人々、権力なき人々、抑圧されあざけられた人々の観点から、簡単に言えば、苦難を受けている人々の観点から見ることを学んだのであり、これは比べることもできないほどの価値を持った体験として残る」(『獄中書簡集』、19頁)。

 これは何を意味するのだろうか?

 彼の念頭に、ヒトラー支配下のドイツでユダヤ人が受けた苦しみがあったことは間違いないであろう。その頃、ユダヤ人は、「社会から閉め出され」、「疑われ」、「虐げられ」、「抑圧され」、「あざけられ」、「苦難を受けた」人々であった。この人々の観点から物事を見ることの大切さを、彼は指摘したのである。「下からの視線」。

 だが、彼はそれ以上に主イエスのことを考えていたに違いない。イエスは、「社会から閉め出され」・「疑われ」・「虐げられ」・「抑圧され」・「あざけられ」・「苦難を受けた」人々の傍らに立ち、彼らと共に慈しみ深い神に目を注いだ方であった。我々の教会は、徹底してこの「下からの視線」を身につけるべきではないか。



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