2010.2.28

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「苦難・忍耐・練達・希望」

村上 伸

イザヤ書53,1-5;ローマの信徒への手紙5,1-5

 今日のテキストの冒頭で、パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」1節)と言っている。この美しい言葉の意味は、パウロ自身の「回心」という大きな経験と切り離しては理解できないだろう。そこで、先ず、「回心」の前と後とでパウロの信仰がどう変わったか、特にイエスとの関係で見ておきたい。

回心前のパウロにとって最も大切なことは、「モーセ律法を厳格に守る」ことであった。ところが、イエスは「愛」のためには律法を破ることも敢えてした人物である。そのために「罪人として」断罪されたほどだ。回心前のパウロは、こうしたイエスの生き方を許すことができず、神聖な律法に対する冒涜として厳しく批判していたし、イエスに従う者たちに対しても律法による厳格な処罰を要求した。

この原理主義者パウロが、ダマスコへの途上で、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録9章4節)というイエスの声を聞いて打ちのめされる。深刻な反省を迫られたのだ。反省の内容は、ローマ書2章に書かれている通りであったろう。それはユダヤ人一般に対する批判のように聞こえるが、むしろ、そこに書かれた言葉はパウロの自己分析だったと考えた方が分かり易い。

2章1節「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」というのは、パウロ自身のことだ。同17節もそうだ。パウロ自身が、「律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえて」いると思い込み、「闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師である」(同20節)と自負していた、というのである。それなのに、その自分が律法の中で最も重要な「隣人を自分のように愛しなさい」レビ記19章18節)という掟に背き、イエスに倣って隣人を愛そうと努力していた人たちを殺した。そういうことを、自分は行ってきた!

この大きな矛盾に気づいた彼は、初めて「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(3章28節)という真理に目覚めたのである。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」という今日の言葉は、回心が彼にもたらした新しい信仰を示している。自分のこれまでを反省したパウロの「罪責告白」と言えるかもしれない。

第4世紀の偉大な神学者アウグスティーヌスは、「キリスト教信仰において最も大切な徳は何か?」と弟子に問われたとき、それは「謙虚さ」(フミリタス)だと答えたというが、パウロの生き方に例を取るならば、「謙虚さ」とは「自らの義」を誇ることをやめ、「神の義」を受け入れることであろう。かつての彼は、「律法の義」を行うこと、つまり、自力で自分を「義人」に仕立て上げることを最重要の目標にし、「自分は正しい」と言い張っていた。自己正当化で膨れ上がった心。それは「謙虚」の正反対である。そのような心に、神の愛を受け入れる余地はない。口先では「神、神」と言っていても、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)という掟を本当に守っているとは言えない。

我々にも経験があることだが、「自分が正しい」と言い張っている間は、決して仲直りは起こらない。自分の非を認めて心から「ごめんなさい」と謝るとき、初めてお互いの間に暖かい感情が戻り、美しい関係が再建される。不思議なことだ。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」というのも、そういうことではないか。謙虚になってキリストを見上げ、あの方を十字架上で殺したのは他ならぬ自分たちの罪であるということを認め、その罪を告白して心から赦しを乞うとき、初めて神との間に「平和」が戻る。同時に、それによって隣人との関係も本来あるべきかたちに回復されるのである。パウロは、実際にそのような経験を重ねてきたに違いない。だから、感謝を込めて、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられた」(2節前半)と言ったのである。

そして、それは2節後半「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」という言葉につながる。だが、「希望を誇る」とはどういうことだろうか?

ローマ書8章18節以下に、パウロは、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われている」と書いている。いつの日か、神の約束は必ず実現される。この希望が我々に喜びを与え、我々の人生の支えとなる。「希望を誇る」とは、そういうことであろう。だが、我々が誇るのは希望だけではない。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」とパウロは言う。「苦難」というギリシャ語は、もともと「圧迫する」という動詞から来た言葉だが、並みの「プレッシャー」とは違う。パウロはある時、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていて欲しい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」コリント二 1章8節)と言ったことがあるが、これこそが「苦難」である。だが、このような、「死の宣告を受けた」に等しい苦難の中で、彼は「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りとするようになった」(同9節)と告白する。「苦難を誇る」ことができた秘密はここにあったのである。

だから、パウロは言う。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3-4節)。



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