今日の箇所では、キリストが大祭司になぞらえられている。一体、「大祭司」とはどのようなものだろうか?
初代の大祭司は、モーセの兄弟アロンであった。だが、このアロンは、「すねに傷を持つ」人物であった。というのは、先ほど朗読した出エジプト記32章にあるように、モーセが山に上ったまま中々下りて来ないので民衆が不安をつのらせ、「我々に先立って進む神々を造ってください」(1節)とアロンに求めた時、彼はこれに応じて「金の子牛」を造ったからである。彼は民衆と共にこの偶像を礼拝し、そして、それは倫理的退廃に結びついた。「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」(同6節)。
しかし、このような罪を犯した人物が大祭司に選ばれたのは、必ずしも無意味なことではなかった。5章1-2節に、「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを捧げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」とある通りである。そして、大祭司は「弱さを身にまとった」人間であるが故に、「民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのための供え物を献げなければならなかった」(3節)。そのために、彼は年に一度、たった一人で、神殿の至聖所(最も神聖とされた場所)に入り、自分と民族の過ちを赦して頂くために雄山羊と若い雄牛の血を献げた(9章7節)。これが、大祭司の職務であった。
ヘブライ書の著者は、この大祭司と比べて、主イエスが成し遂げたことの意味を明らかにしたのである。比較のポイントは次の点にある。―― 大祭司が捧げたのは自分の血ではなく、雄山羊や若い雄牛など動物の血であり、その意味では「まことのものの写し」(9章24節)、つまり、不完全なコピーに過ぎなかった。だが、イエスは、「この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」(9章11-12節)。つまり、イエスは、人間が建てた神殿の奥にではなく、神の御心を深く思いながら進み、そこで動物の血ではなくご自分の血を献げられた。しかも、大祭司がこのような犠牲の儀式を毎年一度繰り返さなければならなかったのに対して、イエスは永遠にただ一度、御自分の尊い命を献げられた、というのである。
さて、以上が「大祭司」について知るべきことの概略である。その上で、今日のテキストについて考えたい。
先ず、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(14節)と言われている。ここには、深い慰めがある。我々には「偉大な大祭司」である「神の子イエス」が常に一緒にいる。そして、我々のために執り成して下さる。我々は孤独ではない。
最近天に召されたスイスの実践神学者ルードルフ・ボーレン教授は、しばしば、ドイツ語で「孤独」を意味する「アインザムカイト」(「アインス」は数字の1)をもじって、「ツヴァイザムカイト」(「ツヴァイ」は数字の2)について語った。この「新語」をどう訳したらよいか分からないが(二人性とでもしようか)、それが本来意味するところは、「我々はイエスと二人連れだ、決して孤独ではない」ということらしい。この確信を、彼は、夫婦や友人、あるいは牧師同士の関わりにも及ぼして考えた。それが人間の根源的な在り方だというのである。私にとって忘れ難い思い出である。
主イエスは、人を愛するためには共に苦しむことも厭わなかった。これこそ「二人性」である。そして、イエスの苦しみは十字架上で極まる。彼は、「肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に祈りと願いとをささげた」(5章7節)。このような苦しみを経験されたからこそ、イエスは、本当の意味で「私たちの弱さに同情できる」(15節)のである。「同情」(Sympathy)とは、本来、「共に」「苦しむ」ことに他ならない。
最後に、「罪を犯されなかったが」と言われている点に注目したい。
私は若い頃、この言葉の意味がよく分からなかった。というよりも、反発を感じていた。「罪を犯されなかったが」とはどういうことだろう? 罪こそは我々人間の最大の問題ではないか。罪を犯すことなく清純無垢な人生を送った方が、我々凡人の罪ゆえの苦しみに同情することが果たしてできるだろうか?
そのように悩んでいた時に、ボンヘッファーの言葉に出会った。『現代キリスト教倫理』の「責任的な生活の構造」について論じた所である。そこには次のような文章がある。「イエスにとっての関心事は、ただ人間に対する神の愛だけであった。それ故に、彼は人間の罪の中に入って行くことができ、彼らの罪の重荷を自ら負うこともできる。イエスは、人々を犠牲にして自分だけが完全な者であろうとはしないし、また、自分だけが罪なき者として、罪のために滅び行く人類を見下そうともしない」(272頁)。その後で、決定的な言葉が来る。「人々に対する無私の愛から、その無罪性から、イエスは人間の罪の中に入って行き、その罪を自らに引き受ける」。
イエスは人々に対する愛のゆえに「罪人になる」こともできたというのである(マルコ3章1節以下)。これが「罪を犯されなかった」ということの最も深い意味ではないだろうか。