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先週開催された臨時教会総会で、次期主任牧師の招聘が決まりました。このことを心から喜び、神に感謝したいと思います。その喜びと感謝を胸に、パウロの手紙の一節を手がかりに、〈教会に参加しつつ生きるとはどういうことか〉について、ごいっしょに考えましょう。
今日のテキストを見ると、三種類の集団がそれぞれ区別され、その関係について言われています。まずは教会内で指導的な立場にある人々、つぎに一般の信徒たち、そして最後に、教会には所属しないけれども信徒たちが共に生きている周辺社会の人たちです。
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最初に、指導的な立場の人々が、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」(12節)と描写されています。
具体的には誰のことなのでしょうか。パウロはチームを組んで伝道を行っています。チーム・パウロには、この書簡の共同執筆者であるシルワノとテモテが含まれます(1,1)。しかしこの人たちはテサロニケの地域社会には定住せず、巡回伝道に当たっています。教会のために身を粉にして働き、主イエス・キリストにあって信徒たちの先頭に立ち(あるいは信徒たちの世話をし)、教会のメンバーに理性的な諭しを与えている――以上が原文の本意です――とパウロが言うのは、チーム・パウロの人々というより、むしろ地域に定住し、教会で指導的な働きをしている信徒たちであると思います。なおこの時代には、今のような牧師検定制度はもちろんありませんでした。
指導的な働きをする信徒たちを、他の信徒たちが「重んじ」、「愛をもって心から尊敬する(原文は「遥かに秀でていると愛にあって見なす)」よう、パウロは教会全体にお願いしているのです。
すると私たちの教会でこうした人々に相当するのは、牧師というよりも、むしろ信徒の中の奉仕者です。具体的には役員、教会学校スタッフ、奏楽者、さまざまな係り(例えばテープ発送、インターネット管理、点字週報、清掃など)、さらに諸行事のコーディネーター(例えばクリスマス祝会、イースターフェスタ、召天者記念礼拝、結婚式、お葬式など)です。日本語でいう「お世話をする」「気を使う」「誰かのことを覚えて祈る」「訪問する」「一筆添える」などの働きですね。そのような人々のさりげない、そしてたゆまぬ努力によって、教会生活の実質は支えられています。
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続いてパウロは、一般信徒の相互関係について「互いに平和にすごしなさい」と言います(13節末)。そしてその内実が、以下に三つに分けて、「怠けている者たちを戒める」「気落ちしている者たちを励ます」そして「弱い者たちを助ける」と言われます(14節前半)。これは行動的な平和ですね。「平和にすごす」とは何もしない、何も言わないことでなく、むしろ積極的に関わりあうことです。三つの動詞表現を原文に照らせば、それぞれ「隊列を乱す(/無規律な)人々を理性で諭す」「気の小さな人たちの傍らにいて、その心を強める」そして「身体的・社会的に弱い立場の人々を支援する」になります。――これは実質的に、先にふれた教会の指導的な信徒たちがしていることと同じです。
先日、テレビのドキュメンタリー番組で、「無縁死」を遂げた人々についてのルポルタージュを見て、衝撃を受けました。背景にあるのは社会の都市化、産業の構造転換とその結果としての大量解雇、そして地方社会の疲弊などです。そうした社会背景のもと、ほんの小さなことが原因で、家族親族や地域との絆を断たれた人が、都会の片隅の安アパートでひっそり暮らし、やがて人知れず死去した結果、地方自治体が「行きだおれ」の身元不明人として処理する事例が増えているというのです。役所の倉庫には、本名の記載された預金通帳が遺品として残されているのに「身元不明」だなんて! ご遺体を引きとる人すら名乗り出ないので、誰もまともに調べないのですね。だから「無縁死」と呼ばれる。――身寄りのない人々が、自分が死んだらどんな葬式をしてほしいとか、財産はどう処分してほしいとか、そうした希望に関する生前の委託を受けつけるNPO法人が増えているとのこと。地方自治体の共同墓地、無縁仏の遺骨を納めているお寺の話もありました。
その番組で、一人の男性の事例が紹介されました。この方は離婚後に単身で上京し、単純労働に従事していましたが、別れた妻に託した子どもが事故死したとの知らせを受けて、うつ状態になり、アパートの自室から出られなくなりました。誰がドアをノックしても開けてくれない。そのとき、たまたま隣にあった幼稚園の幼い娘さんが、おじさんの身を案じて、屋根伝いに窓からこの男性の部屋に上がりこみ、そこで姉妹や友だちといっしょに遊ぶようになったのだそうです。子どもたちに慰められて、この男性はやがてそれなりに回復しました。後に彼は、この少女の成長をカメラで記録した記念アルバムを作り、感謝の言葉とともに贈りとどけています。――このような小さな命のふれあいに、番組制作者は一筋の希望を見出そうとしているのだと思います。
古代には、現代社会におけるようなさまざまな施設を含む自治体による支援サービスは、ありませんでした。キリスト教会がそれを行ってきたのです。現代にあっても、社会で生きる人々の絆を強めるための出会いの場を提供することは、教会の大切な課題であると思います。どうやら日曜日に牧師の説教を聞くことだけが、クリスチャンの生き方ではなさそうですね。私たちが暮している地域社会での証しが問われています。
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だから教会員相互の関係は、ただちに周辺社会の人々との関係に向けて拡大されます。――「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」とパウロは言います(14節末)。「忍耐強く接する」と訳されている動詞は、「太っ腹である」というほどの意味です。マタイ福音書18章の譬え話で、巨大な借金のある僕が、債権者である王の前で懇願して「どうか待って下さい」と言うのと同じ単語です(マタ18,26。29節も参照)。つまり「君たちは万人に対して太っ腹でありなさい」。
その意味するところを、パウロは〈誰かが誰かに向かって、悪に対して悪を返すことのないように〉と述べますが、これはまちがいなく、イエスのあの言葉の反響です。すなわち、
あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5,38-39)
テサロニケ教会は、地域のマケドニア社会から圧迫されたようです(例えば2,14後半、3,4など)。その悪に対して悪で報いず、むしろ「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」とパウロは勧めます(15節後半)。
では、信徒相互と周辺社会に対して善を追い求めるとは、何を意味するでしょうか。それはポジティヴには「喜び」「祈り」そして「感謝」という存在のあり方です。それがイエス・キリストにあって、私たちに対する神の意志だとパウロは言います(16-18節)。他方でネガティヴには「霊の火を消さないこと」「預言を無効と見なさないこと」――むしろ「すべてを吟味して、よいものを大事にすること」――、そしてあらゆる悪を遠ざけることです(19-22節)。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」――この勧めは、教会コミュニティーの中で通用する倫理が、一般社会から遮断された特殊倫理でないことを示しています。なるほど信徒相互のあり方を根拠づけるのは、イエス・キリストにあって示された神の意志です。それでも信徒相互のあり方は、そのまま周辺社会にも通用する。なるほどキリスト教会は独自の輪郭を備えており、それは周辺社会の中に解消されてはなりません。洗礼と聖餐という二つの儀礼が、その輪郭のしるしです。それでもこの共同体のエートスは、外部社会に向かって開かれています。人々はその儀礼を見ることができました。この点でキリスト教会は、部外者に対して儀礼を閉ざした密儀宗教とは、決定的に異なります。
他方で、「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」(19-20節)とあるのは、あるていど特殊キリスト教会的な現象を念頭においています。おそらく「霊」とは異言のこと、また「預言」とは礼拝における奨励や説教のことだからです。パウロは異言を大切にしましたが、預言をもっと重視しました。それは預言が、共同体の誰もが理解できる言葉であるがゆえに、教会共同体を作り上げるものだからです(1コリ14参照)。そして預言の言葉は、もちろん共同体外部の人々にも理解可能です。
「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」(21節)――日本語では見えにくいのですが、これは二人称複数形の命令法です。つまり「吟味する」とは共同体的な討議を意味します。「すべてを」とある以上、教会共同体の話題にタブーはありません。何を論じてもよいのです。こうして「霊」と「預言」すなわち礼拝は、共同体的な「吟味」と一つながりです。単独指導者による独占的な決定でなく、共同体的な討議が、神崇拝の実践に直結するものとして重んじられているのです。
さきほど旧約聖書から、ソロモンが王権を確立したときに見た夢について述べた箇所を朗読しました(列王記上3,4-15)。――神ヤハウェが夢に現れ、欲しいものは何でも与えようと、若きソロモンに提案します。すると王は、自分は未熟者なので「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い出ました。これを喜んだ神は、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と約束するのです。――列王記では、善悪を判断するための「聞き分ける心」を求め、「訴えを正しく聞き分ける知恵」を受けとるのは絶対権力者である王ソロモン一人ですが、テサロニケの信徒への手紙ではそれは教会共同体の全体です。
他方、「良いものを大事しなさい」とは、逐語的には「美しいものを保持しなさい」という意味です。その逆が、「あらゆる悪を遠ざける」(22節)ことなのでしょう。
「良いもの/美しいもの」とは、私たちにとって何でしょうか?――それは何よりも、イエス・キリストの福音です。そしてこの福音によって示された、先ほど紹介した少女のような、社会のバリアを超えて命を分かち合う生き方です。そこには信徒相互の交流、自発的な奉仕と協力、地域社会への支援、そしてよき牧会者による導きがあるでしょう。教会の建物と土地はそのための場です。――ちょっと現金な話をしますと、私たちの教会は借金がありません。この教会の土地と建物は、旧上原教会の方々のご好意により、いわばただで私たちに与えられたからです。しかしその背後には、上原教会の信徒さんたちの血のにじむようなご苦労がありました(詳しくは『上原教会のあゆみ』をご覧下さい)。
そうしたことがらを含めて、私たちのすべての歩みを貫いて、「喜び」「祈り」そして「感謝」の実践が、歴史として積み上げられてゆくのだと思います。