パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(7節)と言う。「宝」とは何だろうか? 先ずそのことを明らかにしたい。
『マタイによる福音書』6章19節以下には、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」とある。この「富」は、原語では「宝」と同じである。
「虫が食う」。これは西陣織のような美しい織物のことだろうか。「さび付く」。これは多分、貴金属や宝石で細密な細工を施した高価な装飾品のことであろう。「盗人が忍び込んで盗み出したりする」。これは、安全な場所にしまったつもりの貴重品や現金だろう。「宝」とか「富」とかいうのは、普通、そういう「物」のことである。
私は、そういう「宝」は何も所有していないが、とても大切にしている物が一つある。今から40年も前に、尊敬する神学者カール・バルトをスイスのバーゼルに訪問したとき、彼からサイン入りでプレゼントされた『教会教義学』の最終巻である。この書物が、私にとっては「宝」である。だが、この宝は、私が一人の人間として、また、キリスト者として、生きる喜びと希望を彼から与えられたという記憶と結びついている。だから、書物は無くなっても構わない。この「記憶」が宝なのである。
神学校に入って2年目の頃、私は自分の弱さに絶望していた。自己嫌悪に陥り、牧師になるのもやめようと思った。バルトの『ローマ書』という本と出会ったのは、その頃のことである。何か魅かれるものを感じて読んで行くと、彼が「信仰」(ピスティス)というギリシャ語を「神の真実」というドイツ語(ゴッテス・トロイエ)に訳していることに気づいた。バルトはこう言っていた――私の信仰には、強いときもあるし弱いときもある。しかし、それは問題ではない。私の信仰がどのようであれ、それとは関わりなく、神は常に真実である! 私はこの言葉によって絶望から解放された。
さらに読み進める内に、彼がロシアの文芸評論家メレジコフスキーの言葉を引用している所に出会った。「我々は、何も生えていない高い山の、険しい崖はずれにしがみついて辛うじて生きている草のようである。遥か下の谷間には、樫の大木が根を深く大地に下ろして繁っている。だが、我々は弱く小さい。強風や嵐に身を守るすべもなく吹きさらされ、今にも枯れそうだ。しかし、朝まだき、あの樫の梢がまだ闇の中に沈んでいるとき、我々はもう光の中に立っている。我々は昇る太陽の光を見る最初の者である」。私は、涙でそれ以上字が読めなかった。
この言葉は私の心に深く浸透して私を立ち直らせた。だから、バルトは私にとって、世界的に高名な神学者というだけでなく、まだ会ってもいないのに、私の魂のケアをしてくれた牧師のような存在であった。この事実が私の「宝」なのである。
では、パウロにとって「宝」とは何だろうか? 文脈から見て、「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」(4節)がそれだ。もっと端的に言えば、彼が宣べ伝えている「イエス・キリスト」(5節)であり、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」(6節)という事実である。そして、これは私たちの宝でもある。
その宝は「土の器」(7節)に納められている、とパウロは言う。『テモテへの手紙二』2章20節に、「大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます」とあるように、「土の器」とは、パンや野菜などを入れるごく普通の容器のことだろう。また、精神的・肉体的な「弱さ」の比喩でもある。
我々が今日読んでいる手紙の1章8-9節に、パウロはこれまでに自分たちが被った「苦難」について述べ、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と書いた。また、7章5節には、「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」と率直に告白している。人間は誰でも「土の器」のように傷つき易い心と壊れ易い肉体を持っている。人生の困難に出遭って「生きる望みさえ失ってしまった」というのは、多くの人に共通する経験である。パウロも例外ではなかった。
だが、それに続けて彼は言う。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8節)。一体、この不思議な力はどこから来るのか?
「この並外れて偉大な力は神のものであって、わたしたちから出たものでない」(7節)というのが、パウロの答えであった。これは、彼が絶えずイエスの死と復活を見上げていたところから出てきた言葉に違いない。愛のために御自分の命を捧げたイエス。そして、絶望的な死の中から復活されたイエス。この方を見上げるとき、彼は「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現われるために」(10節)と言う他はなかったのであろう。
先ほど、バルトを訪問した時のことを述べたが、彼は、その本の扉にサインした後、ラテン語で「福音の中にこそ神の国がある。それはイエス・キリストだ」と書いてプレゼントしてくれた。これは聖書の真理の中心ではないか。そして、これが我々の宝である。この宝は、我々一人ひとりの傷つき易い心と壊れ易い肉体の中に納められて、しかも、その中で光を放つ。このことを心に刻みたい。