(1)いやしは伝道の手段ではない
主イエスが次々と病人をいやされ、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されると、大勢の群衆が主イエスのもとに押し寄せてきました。評判が高まって、人気が出てきました。ここでもしも、主イエスが「さあ今こそ決心してわたしに従ってきなさい」とおっしゃっていれば、多くの人がイエスの弟子になったことであろうと思います。しかし、主イエスはそういう道を取られませんでした。むしろ反対の道を取るのです。名声、評判、人気が最高潮に達したかに見えるところで、人々の前から退こうとされる。
「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」(18節)。
これは演出ではありません。本気なのです。普通に考えれば、ここで、「皆さん、私の話を聞いてください」と、始めるところではないでしょうか。もしもこれまでの癒しよりも、主イエスに従っていく決心をすることの方が大事なのであれば、そこでそう言えばいいのです。「これまでのことは、皆さんが私に従ってくるためのきっかけに過ぎません」と言えばいいのです。しかしそれさえもなさらずに、ひそかに群衆の前から消えていこうとされる。もしも多くの人を感動させ、多くの回心者を出させることが一流の伝道者であるとすれば、主イエスは二流の伝道者だということになるでしょう。絶好の伝道のチャンスを逃した。もって行き方によっては、大成功を収めうるものを、最後のところで下手なやり方をしたために、今従う決心のできる人たちをみすみす逃してしまったということになります。このことは、主イエスは、これまでなさった癒しの奇跡を、伝道の手段にはなさらなかったということをあらわしていると思います。
(2)いやしの奇跡は愛の発露
ブラジルにいた頃、テレビなどで不思議ないやしを見せて伝道するキリスト教の教派がありました。例えば、歩けない人が舞台の上に連れてこられて、伝道者が「イエス・キリストの名によって歩け」と言うと、その人が立ち上がって歩き始めるのです。そしてその人が本当に歩けなかったということを何人もの人が証言をします。「あやしいなあ」と思いました。
私はいやしの奇跡は、ありうると思います。主イエスが神の子であれば、当然それ位のことはできたであろうし、他の普通の人間であっても、その人の手に神の力が宿れば、医学では考えられないいやしが起こることもありうるでしょう。しかし、いやしを伝道の手段にしてはならないと思うのです。主イエスもそうはなさいませんでした。むしろそれが誘惑となることをよくご存知であったので、「だれにも話さないように気をつけなさい」(マタイ8:4他)と言われたり、ひそかに退かれたりしました。主イエスにとって、いやしは人々を引きつける道具ではなく、愛のあらわれでありました。神の愛がほとばしり出て、この世界の法則をも超えて働いたものが奇跡であったのです。
ですから、その力に感動して、主イエスに従って行こうとするならば、その力を求めてすなわち何でも願いをかなえてくれるような救い主、スーパースターとしてのイエス・キリストを求めているならば、決定的なことを誤解することになりかねない。事実、人々は誤解しました。そして誤解したのは自分たちであるのに、主イエスが自分たちの考えていたようなメシアではないことがわかると、裏切られたと思って一層憎むようになります。そして「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。
(3)イエス・キリストに従いたい人
主イエスが去っていこうとされた時、一人の人が「先生、あなたがおいでになる所から、どこへでも従って参ります」(19節)と言って、主イエスに近づいてきました。この人は主イエスのいやしのわざをじっと見ていて、感動した一人なのでしょう。マタイは、わざわざこの人が律法学者であったと書いています。そこいらの群衆とは、ちょっと違うのです。聖書のことを専門的に、ずっと勉強してきた人です。勉強ということからすれば、ナザレの田舎の「大工の息子」であるイエスよりも、ずっといい教育を受けてきたはずの人であります。
私たちはまずこの人の勇気と熱意に注目して、それを評価したいと思います。主イエスとの出会いを経験して、「この人は自分がこれまで触れてきた人とは違う」と思った。「今、自分の前から去ろうとしているけれども、ここで去っていかれると、ただ単に過去の想い出になってしまう。そこで「先生」と呼びかけ、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と言うのです。主イエスも、「なかなか筋のいいのが来たな」と言われてもいいような場面です。
(4)少し距離を置くイエス・キリスト
しかし主イエスの答えは冷たく響きます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」(20節)。これはすぐ聞いただけでは、真意をはかりかねます。あまり積極的に受け止めておられないということはわかります。そっけない言葉です。せめて、「そうか、よく言った。でも、この道は厳しいぞ、いいか」位のことを言われてもよかったのではないでしょうか。主イエスは、この人を頭から拒否されたのでもないでしょう。ただ感銘を受けて、一時の気持ちでキリストに従っていこうとする彼に向って、「自分には安心して眠るところもない。私に従うということは、多かれ少なかれそういうことを伴ってくるものなのだ。お前にはその覚悟ができているか」と問われたのでしょう。あまりにも自信に満ちた言葉は、かえって信用できない。口で大きなことを言うだけではなく、本当の心からの服従を求めておられるのです。
この律法学者の言葉は、やがて十字架を目前にした主イエスに向かって、ペトロが大見えを切って語った言葉に似ています。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)。しかしそう言った一番弟子ペトロでさえも、主の十字架を前に裏切って、逃げてしまいます。
ただし「もっとじっくり考えて、覚悟を決めてから従ってきなさい」と言われたのであるとすれば、果たして誰が主イエスに従っていくことができるだろうか、という気もいたします。「それでもあなたに従います」と言うことができるか。牧師である私も含めての話です。ですからこの時、主イエスが、この律法学者に対して少し突き放されたような言葉、距離を置くような言葉を語られたのは、「キリストに従うことを全うされるのは、あなたではなく(人間ではなく)、神だ」ということなのかも知れません。
私たちが主に従うということが、もしも私たちの決心に基づいているのだとすれば、結局のところ、頼りないものではないでしょうか。確かに私たち自身が決心しなければならない。しかし主に従うということ自体が、主イエスの召しに対する応答です。主イエスに召しだされて、「それに従うかどうか」の決断をするのです。その最初の召しを抜きにして、私たちがひとりで覚悟を決めて主に従うことはできない。私たちの場合にあてはめると、「主に従いたい」という思いがわきあがった時、それが本当に主の召しに基づくものか、果たして自分の思い込みであるのか、祈りをもってよく考えてみるといいと思います。「従いたいけれども、今はまだその時ではない」ということも恐らくあるでしょう。「他のことがうまくいかなくて、牧師にでもなろうか」というような時は要注意ですね。しかし本当にその思いが強ければ、何年もかけてそれを吟味しながら、その道に進んでいくということもあるでしょう。
経堂緑岡教会に昨年までいた神学生の場合、高校卒業の際に、「牧師になりたい」と思いを強く持った人でありました。親に相談したけれども、キリスト教とは関係のない家庭でしたので、反対されて断念して、キリスト教主義の大学の経済学部に進みました。大学卒業時にもう一度、「牧師になりたい」と願って、就職しながら、日本聖書神学校に入学しました。しかし新入社員が夕方5時に退社して、「では神学校へ行ってまいります」というようなことは日本ではゆるされない。「お前、本気でこの会社で働く気があるのか」ということになるでしょう。結局、両立できず、半年で会社も神学校も辞めて実家へ帰ることになりました。もうすぐ30歳になろうとする時に、「やはり牧師になりたい」というので、ある人の紹介により、私のところを訪ねて来たのでした。最初の「従いたい」という気持から10年余りかけて神学校入学を果たし、さらに4年かけて、昨年の春に無事に伝道者として巣立って行きました。今、岡山で伝道師をしています。
私たちの服従は、私たちの覚悟に基づいているのではなく、それを支えている、神の、そしてイエス・キリストの確かさに基づいているのです。フィリピの信徒への手紙の1章6節にこういう言葉があります。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」村上伸先生は、今日、経堂緑岡教会において、この聖句に基づき、「神が始められた善い業」と題して、説教してくださっています。
自分の決心と覚悟をよりどころにしてキリストに従おうとする者に対して、イエス・キリストは、そのような決意と能力の限界を指し示しながら、献身の生活を支えるのはイエス・キリストご自身(あるいは神様)であることを悟らせようとされたのではないでしょうか。
(5)まず父を葬りに行かせてください
その次には、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言って、主に従うことを躊躇した弟子のことが記されています。これは先ほどの全く逆のケースです。彼自身は、そんなこと予期していないし、期待もしていないのに、イエス・キリストの方から、目を付けられ、声をかけられる。彼自身は、どちらかと言えば、というよりも明らかに逃げ腰です。これが先ほどの律法学者であったならば、「はい、喜んでついていきます」と言っていたでありましょう。でも彼は何かぐずぐずしている。
子どもが親を葬るというのは、古今東西を問わず、誰もが大切にすることでしょう。日本でも身内の葬儀ともなれば、すべてを中断して、それを優先するものであります。特に仏教の伝統においては、お葬式や法事を大切にします。クリスチャンは、「供養をしないと、死者の霊が浮かばれない」というような考え方はしませんので、「クリスチャンは死者(先祖)を大事にしない」という批判を、時々聞くことがあります。しかしクリスチャンもやはり葬儀を大切にします。むしろクリスチャンの葬儀によって、「キリスト教のお葬式って、心がこもっていていいなあ」という声もしばしば聞きます。
(6)死者を最も配慮できるお方
主イエスの、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(22節)と言う言葉は、一見、死んだ人の家族の気持ちを逆なでするような言葉に思えるかも知れません。しかし、ここで二つのことを考えなければならないと思います。
まず「父を葬りに行く」というのは、今日の葬儀のように一日や二日で済むことではなかったということです。その最も大きな葬儀の例が、先程読んでいただきました創世記50章に記されています。エジプトに渡ったヨセフが父ヤコブを丁重に葬ったことが記されています。何日も何日もかけて葬儀をしている。本格的な葬りというのは、半年も一年もかけてすることであった、ということです。
もうひとつは、この言葉を語っておられるのは誰かということです。それは、イエス・キリストであります。確かにこの言葉だけを取り上げて読むならば、突き放したような言葉に聞こえますが、イエス・キリストの福音という大きなコンテクストの中で読むならば、また違った響きをもってくるのではないでしょうか。イエス・キリストというお方は、私たちの死というものを最も配慮に満ちた形で受けとめられた方であります。そして私たちの死を他の誰もなしえない形で解決してくださった方であります。そしてそのことのために自分の命を賭け、自分の命を捧げられた方であります。無責任に「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい」と言われたのではありません。
私たちは、死んだ人に対して、究極のところでは何もしてあげることはできません。何もしてあげることができないからこそ、せめて心を込めて葬りをしてあげたいと願うのでしょう。それが、私たちが死んだ人に対してなすことのできる、最後の、そして唯一のことだからであります。私たちの手元を離れたその人は、神様の御手に委ねるより仕方がない。供養をしても、それで死者の魂が浮かばれるわけではありません。意味があるとすれば、それはのこされた側の者にとって、慰めになり、記念の時になるということでありましょう。
私は主イエスの「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉には、「死んだ人はもうあなたの手の届かないところにあるのだ。それは私の領域だ。私が配慮することだ。その人のことは私が引き受けるから、あなたは心配する必要はないのだ」、そういう響きを感じるのです。だからこそ、それを前提にして、「わたしに従いなさい」と言われたのではないでしょうか。決して突き放しておられるのではありません。むしろその人の生全体が受けとめられた上での言葉なのです。
(7)まず神の国と神の義を求めなさい
「まず」という言葉で思い起こすのは、主イエスの「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)という言葉です。主イエスは、これに続けて、「そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」と言われました。
私たちには、この世の生活を営んでいく限り、大切にしなければならないことがあります。人とのつきあいがあります。仕事の面で優先しなければならないことがあります。家族を養わなければなりません。年老いた両親の面倒をみなければなりません。しかしそういう、さまざまの「しなければならないこと」に取り囲まれた生活の中で、究極のところ一体何を優先するのかということが問われているのではないでしょうか。
こんな話を聞いたことがあります。
ある青年がイエス・キリストに呼びかけられた。「私に従いなさい。」「主よ、あなたに従うには、私はまだ若すぎます。もっと人生経験を積んで、もっといろんなことがわかるようになってから従いたいと思います。」それから20年位が経ちました。「私に従いなさい。」「主よ、従いたいのですけれども、今はそれどころではないのです。もう少しお待ちください。そうすれば時間もできますから。」大体、40代、50代というのは、社会でも一番こき使われる年代です。イエス様が、「よし、わかった」と言われたかどうかは、わかりませんが、とにかくその時も過ぎ去っていった。それからさらに20年か30年か経ちました。イエス・キリストはもう一度現れて言われました。「私に従いなさい。」そうすると彼は、こう答えました。「主よ、あなたに従うには年を取り過ぎました。もう少し若かったらよかったのですが。」
まあ冗談のようなものですが、笑うに笑えない冗談です。この話が意味することは、私たちは主の招きを断ろうと思えば、いつでも何かしらの理由を持っているということであります。「主よ、あなたは私がどんな状況にあるか、わかっておられますか。今はそれどころではないのです」。そう思う人もあるかも知れません。しかし主イエスはむしろ、私たちのそのようながんじがらめのような生活をすべてご存知の上で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われたのではないでしょうか。この主イエスに自分を委ねて、従う者となりたいと思います。