I
キリスト教の暦で、1月6日は顕現祭(エピファニー)です。歴史的には、12月25日にクリスマスを祝う伝統と並んで、1月6日に祝う伝統がありました。これらがやがてクリスマスを祝う期間としてまとめられていったのです。
西方教会では、1月6日は、キリストが異教徒に自らを現した日とされます。そのさいマタイ福音書2章の、東方の占星学者たちがベツレヘムに赤ん坊のキリストを訪ねて礼拝した、という物語が好んで読まれます。以前に暮したスイスでは、この日は「三人の王様の日/Dreikoenigstag」と呼ばれ、それにちなんだ特別なパンが町で売られていました。
他方で東方教会には、1月6日を、キリストの誕生と同時に、彼の洗礼の日として祝う伝統があります。そのとき今日のために指定されたテキストであるマタイ福音書3章その他の、イエスの洗礼についての聖書箇所が読まれます。このテキストには「父」なる神の声、「神の子」キリストの宣言、そして聖霊の降臨と三位一体の三つのペルソナが出そろいます。イエスの洗礼箇所は、とくにその第二位格「神なる子」キリストの顕現の祝いにちなんでとりあげられるのです。顕現祭は、復活祭と並んで洗礼が行われる祝祭日です。また聖水を清める儀式なども行われるそうです。
――イエスは、キリスト教において救済者です。私たちは彼の名、あるいは「父と子と聖霊の名」に向けて洗礼を受け、キリストの体である教会に属する者になります。では、そのイエスが、ヨハネから受けた洗礼とは何だったのでしょうか。どのような意味で、受洗者イエスが、私たちにとってキリストなのでしょうか。
II
自分の福音書を書くときにマタイは、マルコ福音書を資料として用いました。そのマルコ福音書では、洗礼場面を通して、イエスが神の「愛する子」として類まれな存在であることが強調されています(マルコ1,9-10)。他方でマタイは、なぜ神の子イエスが、彼よりも劣った存在である洗礼者ヨハネから洗礼を授けられなければならないのか、という問いに関心を寄せます。イエスを前にヨハネが見せるためらいと、それに対するイエスの返答(14-15節)は、マルコ福音書になかった要素を、マタイが付加した箇所だからです。
後の正統派教会にとっても、イエスの洗礼という事実は、少々とも困惑の種になりました。例えば、イエスは永遠の神的なロゴスの受肉であると考えられましたが、その場合、なぜ受肉の後に、洗礼によってもう一度聖霊を授与される必要があるのでしょう。同じことは、イエスが神性の第二位格つまり永遠の存在であると考える、三位一体論的なキリスト論にも当てはまります。さらに、神の子キリストの無罪性を信じる教会にとって、イエスが「罪の赦しに至る悔い改めの洗礼」(マルコ1,4)を受けたことは、矛盾しているように感じられました。
そこでさまざまな解釈が生まれたのですが、マタイ福音書を読む限り、イエスは「エルサレムとユダヤの全土」「ヨルダン川沿いの地方一帯」からやって来て、「罪を告白」してヨハネの洗礼を受けた多くの人々の一人です(マタイ3,6参照)。このことは、マタイのキリスト理解にとって何を意味するでしょうか。そしてそのイエスが「神の子」であるという宣言は(17節)、どのような意味なのでしょう。
III
「私こそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに、あなたが私のところへ来られたのですか」という、イエスに対するヨハネの問いかけは、ヨハネ自身の預言「私の後から来る方は、私よりも優れておられる」(3,11)を受けています。これに対してイエスは、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と返答します(16節)。ここで新共同訳が「正しいことをすべて行う」と訳す箇所は、原文では「すべての義を満たす」という特徴的な表現です。――「すべての義を満たす」とはどういう意味でしょうか。
まず「すべての義」とは、神の意志の全体を指しています。ヨハネによる洗礼はその一部です。そしてイエスの弟子たちに求められているのは、神の意志の全体を行うことです。例えば主の祈りに、
とあります。神の意志が地上でも実現されることは、イエスと彼の仲間たちに共通の祈りでした。また山上の説教のイエスは、弟子たちと群衆に向かって次のように宣言します。
これは、イエスの要求する義が〈より良き義〉、つまり単なる義しさを超える義、まったき心とまったき行いを通してなされる神への従順であることを示すでしょう。さらにマタイ福音書の末尾では、復活者キリストが次のような宣教命令を弟子たちに与えます。
弟子たちには、イエスが「命じておいたすべてのことを守る」こと、すなわち創造者である神の意志の表れである「義」を無限に実行することが求められています。――こうして「すべての義」とは、およそ人なる者が神と人々の前で行うべきことを指します。
しかし第二に、イエスについてのみ「義を満たす」という風変わりな表現が用いられます。山上の説教にある、イエスの有名な宣言を思い出してください。
つまり弟子たちが律法や義や戒めを「行う」「守る」と言われる一方で、イエスは「すべての義」「律法や預言者たち」を「満たす」と言われます。イエスは、律法や預言者が本来目指していた、神の意志である義にまったく服従して生きたという意味です。
IV
「これは私の愛する子、私の心に適う者」(17節)という神の声が天から鳴り響くのも、このことに関係しています。
イエスがヨハネによって水に沈められた後に立ち上がると、「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった」(16節)とあります。これは、イエスの受洗が神の意志への従順を表す行為であったこと、またそのイエスの行為を、神がただちによしとしたことを意味するでしょう。
しかもマタイは、マルコ福音書で「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と二人称で言われていた言葉を(マルコ1,11)、「この者は・・・」と三人称に書き直します。この神の声が向けられているのは、もはや直接的にはイエスではありません。むしろその周囲にいる人々、つまり広義には福音書の朗読を聞く私たちに、イエスこそが神の子だと宣言されているのです。
どのような意味で、大勢の中の一人のイエスが「神の子」なのか、と最初に問いました。――イエスは「自分は神の子だから洗礼は必要ない」とは言いません。彼は自分のことよりも、「すべての義を満たす」こと、つまり神の意志の全体に服従することを優先します。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(6,33)と彼自身がいうとおりです。イエスはそのように生きた。神の要求に自らをまったく明け渡して生きることで、これを「満たした」。そのような意味で、イエスは神の子なのです。
しかし同時に、「すべての義」はイエスだけによってなされるものではありません。私たちの箇所でも、イエスは「私たちにふさわしい」(15節)と述べて、ヨハネとともに義を満たそうとしています。有名なイエスの言葉が思い起こされます。
「神の子」と呼ばれるという約束の下にあるのが、平和を実現する複数の人々である点に注目して下さい。イエスは神に信頼して、平和を実現しようとして生きた者たちの一人なのです。同じことが、受難物語で十字架につけられたイエスに向けられた祭司長や律法学者たちの嘲弄の言葉に、もっと鋭いかたちで表れています。
ちょっと分かりにくいかもしれませんが、前半は詩編(22,9〔七十人訳聖書の詩20,9〕)のやや自由な引用です。つまり「神に頼った/信頼した」にもかかわらず、十字架につけられたイエスに向かって、「神の御心ならば、今すぐ救ってもらうがよかろう」と、詩編の言葉を使って皮肉が言われているのです。だって、お前は自分が「神の子だ」と言っていたではないか、と。――この発言では、当の発話者である登場人物よりも、物語を語って聞かせる者とそれを聞く者たち、つまり私たちの方が一段高い認識レヴェルにいます。なぜなら祭司長や律法学者は、イエスを罵ろうとして発言しているのですが、私たちは次のことを知っているからです。すなわち自分を低くして神に信頼し、神の意志に対して従順に生きたイエスを神がじきに救うこと、すなわち死者たちの中から起こすであろうことを。イエスが「神の子」であることは、神の意志に従うことを最優先に生きた点に表れているのです。
V
マタイにとって、イエスの洗礼は神の意志への全面的な従順を表明する行為です。そのイエスが神の子なのです。――ではそのことは、私たちにとって何を意味するでしょうか。
まず、私たちもまた、神の義を追い求めることが期待されています。それは「私」の義、「私たち」のグループの義でなく、「すべての義」としての神の要求です。それは人を断罪と死に追いやる単なる義しさでなく、人を生かし・人を立てる、よりよい義でなければなりません。イエスの生がそのようであったと同じように。
つぎに義を「行う」ことと、義を「満たす」ことの間には、小さな違いがありそうです。キリストが「すべての義を満した」のですから、私たちが彼に代わって自力でそれをしなければならない、という強迫観念から自由であってよいと思います。私たちが担うのは、すべての義の一部分を倦まず弛まず行い続けることです。
そして第三に、神の意志が全体的である一方で、私たちの実践が断片的である以上、私たちは日々、祈りを通して神と対話し、理論的にではなく実践的に、今この場で神が求めておられることは何かを問い続ける必要があります。イエスは、徹底的にそのように生きました。そのイエスが、弟子たちと分かち合った言葉をもう一度聞きましょう。