今日の箇所に書いてあることは、世界の将来に関する「不吉な予言」として受け止められることが多いのではないか。
25節の、「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」という言葉は、最近相次いで起こる天変地異・大地震・津波などを連想させるし、26節の「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」という言葉も、危機に直面している現代人の不安な心の状態を言い当てているように見える。
この辺のことをもう少し詳しく書いたのがマルコ福音書13章で、「小黙示録」と呼ばれるところだが、そこではイエスは、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わす」(6節)とか、「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(同7節)が広がるとか、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」(同8節)などと言っている。これらの言葉はすべて、世界の現在の危機的状況を予言しているかのように感じられる。
確かに、現在の世界の問題、例えば地球環境の危機やリーマン・ショックに始まったグローバルな経済危機のことを考えると、思い当たることが多い。不安は一向に解消されないまま今に至っているが、それに追い討ちをかけるようにして、政府や日銀によれば「デフレ・スパイラルが始まった」という。円高は輸出企業を直撃し、失業者は増えるばかりだ。このような社会不安を反映するかのように、自殺者の数は年間3万人を超えた。政権が交代したと言っても、問題は解決されないままである。ルカは今日の所で、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」と言っているが、これは現代の状況をそのまま言い当てているように感じられる。
しかし、私たちは、これらの言葉を現在のさまざまな社会現象に直接当てはめるやり方は取るまい。それでは自分勝手な「こじつけ」になり易いし、何よりも社会不安を一層かき立てる結果になるかもしれないからだ。それだけは避けたい。
では、これらの聖句はどう読まれるべきであろうか?
先ず、これらの言葉を本来の背景の中に戻して、大きな視野で理解するようにすべきであろう。その点について、やや説明的になるが、以下に少し述べてみたい。
紀元前2世紀頃から、ユダヤ教の中には、「黙示思想」という独特の考え方が根を下ろしていた。先ほど朗読したダニエル書7章はその代表である。そして、イエスの復活とペンテコステの後で成立した原始キリスト教は、この「黙示思想」の強い影響を受けていた。その影響の下で新約聖書の諸文書が成立したのである。今日読んでいるルカ福音書21章も、「小黙示録」と呼ばれるマルコ福音書13章も、有名なヨハネ黙示録も、「黙示思想」の影響の下で書かれた。だから、それらの文書には、共通する用語や思想が至る所に見出されるのである。
では、一体、「黙示思想」とは何か?
「黙示」は、ギリシャ語では「アポカリュプシス」といい、元々は「覆いを取り除く」という意味である。ヨハネ黙示録を読めば直ぐに気づくことだが、そこでは「夢」や「幻」を通して、いわば暗号のような謎めいた表現で、世界史の隠された意味が解き明かされる。歴史はどこへ向かうのか? 人類の運命はどうなるのか? それは我々人間の目には隠されているが、歴史の主である神が明らかにして下さる、というのである。「黙示思想」は、このようにして「歴史の意味」を解明する。それが最大の特徴である。
その際、世界の歴史には「始まり」と「終わり」があると考えられた。つまり、神は、天地万物を創造することによって歴史の「始まり」を設定された。そして、神が「善し」と見られる時に、歴史の「終わり」を到来させる。歴史は、この終末に向かって直線的に進む。だから、歴史の中のすべての出来事は一回的、人生もただ一度で、二度と繰り返されない。そして、終末の時には、各人の生前の行いに応じて最後の審判が行われ、悪人は滅ぼされ、逆に正しく生きた義人たちは苦しみから解放されて、永遠の救いに入る、と信じられた。
以上が、全体の大きな背景である。それを踏まえた上で今日の箇所を読みたい。
27節に、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と言われている。これは、元々ダニエル書7章13-14節にある言葉だが、福音書では、この「人の子」はイエス・キリストのことである。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて来る」というのは、主イエスが神の意志によって再び来り給うということである。その時、彼が約束した神の国(神の真実の支配)は完成される。「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)。この約束・この希望が、今日の箇所の中心的なメッセージなのである。
この約束・この希望は、ヨハネ黙示録21章3-4節に、実に慰め深い仕方で展開される。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。主イエスが再び来り給うということは、こういうことだ。私たちが待降節を、そしてクリスマスを祝うのは、このために他ならない。