「ベルリンの壁」が崩壊してから20年。この歴史的な出来事を振り返り、二つの聖書のテキストと関連させて考えてみたい。そこには現代に生きる教会にとって重要な教訓が隠されているからである。先ず旧約聖書のヨシュア記6章を取り上げる。
実は、あの激動の1989年、9月から10月にかけて私は東ドイツにいた。その内5日ほどは、テテロウのマルチン・クスケ牧師宅に滞在していた。優れたボンヘッファー研究者である彼を、日本ボンヘッファー研究会が翌年の全国研修会に基調講演者として招いたので、その細かい打ち合わせのためであった。
10月11日に帰国すると、それを追いかけるようにして、翌12日付のクスケ牧師の手紙が届いた。東独では事態が急速に動いているという。切迫した息遣いが聞こえるような手紙であった。その中に、彼は、「突然、ヨシュア記6章が閃き、それからというもの、私は何度となくこの箇所を読みました」と書いていた。クスケさんはこの箇所を、反体制デモが日増しに高まってはいるものの「壁」はまだ当分は落ちそうにもないという、当時の東独の状況と重ね合わせて読んだに違いない。
1節には、「エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった」とある。エリコの堅固な城壁がイスラエルの人々の前に立ちはだかり、その城門が堅く閉ざされて前途を塞いだように、東独政府が体制の威信をかけて築いた強固な「ベルリンの壁」が、今、自分たちの前に立ちはだかっている。
だが、2節には「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」とある。主なる神は約束を与えて、諦めずに困難に立ち向かうことを命じられた、というのである。だから今、自分たちも「ベルリンの壁」の前で立ちすくむわけには行かない。クスケさんはそう読んだのであろう。だが、どうすればよいのか?
次の6章3-4節には、その状況下でなすべきことに関する神の命令が書いてある。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい」。
「神の箱」とは、「十戒」の二枚の石の板を収めた箱で、この民族に与えられた神の約束の象徴である。これを担げ。つまり、神の約束を信じよ。そして、堅固な城壁の周りを回れ。これを「六日間」、つまり、日毎の営みを来る日も来る日も持続的に続けよ。そして4-5節で、主なる神は命じられた。「七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。・・・民は皆、鬨の声をあげよ」。すなわち、七日目には時が満ちる。決定的に重要な瞬間が来る。その時こそ、民は皆、全力で鬨の声をあげよ。そして、角笛を長く吹き鳴らせ。そのとき「町の城壁は崩れ落ちる」。東独で起こったのは正にこういうことだったし、それは今日の我々にも通用する。
元来、東独は宗教改革発祥の地で、国民の90%以上はルター派であった。しかし、変革の直前には、キリスト者の数は30%台にまで激減していた。「ナチス」と、それに続く「社会主義統一党」が半世紀にわたって圧迫を加えたことがその原因である。
このように少数者に転落したにもかかわらず、教会は自分たちに与えられた使命を見定め、日常の地味な営みを持続的に続けていた。特に1980年代に入ってからは、「人権」・「平和」・「環境」などの問題と取り組み、地方の小さな教会に至るまで、いわば「草の根レベルで」調査・研究・討議を行い、真剣に祈ったのである。ライプツィッヒのニコライ教会で行われた「月曜祈祷会」はその代表である。
こうした日常の営みを真摯に持続する中で、1989年に決定的な時が来た。各地の教会で行われていた「祈祷会」は心ある人々の注目を集め、参加者は日増しに増えた。そして、これらの人々が「教会から」街頭デモに出て行ったのである。牧師たちはデモの先頭に立ち、体を張って「非暴力」を呼びかけた。東独の変革が一発の銃声も響かずに達成されたのは、このためだと言われる。こうして、「エリコの城壁」が崩れ落ちたように、「ベルリンの壁」も崩壊した。
もう一つ、大切な点に注目したい。クスケさんは、ヨシュア記を読んで「壁」が早晩崩れるということを確信したが、同時にあの手紙の中で、そのことは「イエスの精神において、つまり、全く柔和な」仕方で起こるべきだ、ということを強調した。つまり、エリコの城壁が崩れ落ちた後で起こった大量虐殺と略奪は決して正当化できない、という意味である。彼は書いている。「崩れる壁から落ちてくる瓦礫によって命を落とす人が一人もないように配慮しなければならない」。
では、「イエスの精神」とは何か? それは、エフェソ書に明らかだ。2章14節に「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・」と言われているように、キリストは人間の心の中にある「敵意」を取り壊すために自らの命を捧げられた。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(15-16節)。
人間のすることは常に過ちを伴う。エリコでは城壁が崩れ落ちた後で略奪と殺戮が起こったが、ベルリンの壁が崩壊した後は、東西の格差が広がった。再統一が、西側の市場経済原理に東側が「呑み込まれる」という形で進んだからだ。格差は20年経った今でも依然解消されず、東側の平均収入は西側の80%に過ぎない。逆に、失業率は2倍だ。「対立感情」はまだ根強く残り、幻滅と失望が拡がっている。
壁が落ち、東西冷戦が終結したことは善いことだ。だが、課題は残った。特に、言葉と行いで「イエスの精神」を示すべき教会の使命は重大だと言わねばならない。