『山上の説教』(マタイ5-7章)はイエスが弟子たち(教会)に対して語られた言葉で、代表的なのが今日の箇所である。先ず、「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」(38節)とある。出エジプト記21章23-25節、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」という戒めの引用である。
この「目には目・歯には歯」という言葉は、普通、「人から何かやられたら、容赦なくやり返せ」という徹底的な報復の意味で受け取られることが多い。だが、元々はそうではなかった。むしろ、「報復する場合も限度を越えるな、自分が受けた損害と同じ程度にとどめておけ」という意味であった。それは、際限のない復讐の連鎖を断ち切るための、むしろ理性的とも言える戒めなのである。「同害復讐法」という。最古の成文法である『ハムラビ法典』(紀元前18世紀)にもあるところを見ると、人類の古くからの知恵を反映したものと言ってもいいだろう。
だが、イエスは、この「同害復讐」という考えをも乗り越え、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(39-40節)と命じた。つまり、「やられたらやり返す」という発想それ自体を捨てよ、というのである。
このことを理解するためには、マタイ7章3節の「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」という言葉が参考になろう。これは、人間の実態に関する鋭い洞察である。我々の「物の見方」は、常に手前味噌になり易い。人から受けた損害は「針」ほどの小さなことでも大きな「棍棒」のように感じて大げさに腹を立てるくせに(針小棒大)、自分が人に与える苦痛については鈍感で、しばしば全く気がつかない。そういう自分勝手な人間に向かって「復讐するなら自分が受けた損害と同じ程度でとどめよ」と言っても余り意味はない。一旦復讐を始めたら最後、必ず限度を越えて行き着くところまで行くだろう。そうなると、相手も同じように報復しようとするから、悪循環は止まらない。世界の歴史は、そのことを証明している。だから、共に破滅する結果を避けるためには、復讐そのものを止めるほかはない、というのである。
この考えをさらに積極的に言い換えたのが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(44節)という言葉である。「報復しない」というだけでなく、自分に敵対的な態度をとる人を「愛する」のだ。それによって初めて、「あなたがたの天の父の子となる」(45節)ことができる、というのである。そして「天の父の子となる」とは、「共生の理想を実現する」ということであろう。
戦時中、我々は米英などの敵国人を「不倶戴天の敵」と呼んだ。ともに天を戴かず。つまり、「あいつらと一緒に生きていくことなど御免だ、あいつらが死ぬか、俺たちが死ぬか、どちらかだ」という意味である。戦争を始める時、あるいは復讐心が燃え盛る時、人々を支配するのはこのような感情である。
だが、イエスはこの感情を超える。そして、我々が「敵」と呼んでいる人々も、実は、天の父なる神がお造りになったこの世界で一緒に生かされている人たちに他ならない、と言う。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節後半)。この「神の視点」から見れば、敵も味方もない! 我々は、この「神の眼差し」に合わせて物事を見なければならない。近頃の言い方を用いるなら、どんな人も「宇宙船地球号」に乗り組んでいる仲間なのであり、世界という「運命共同体」の一員なのである。仲間に攻撃を加えたり報復行動を始めたりすれば、双方とも一緒に滅びるほかはない。
今日のテキストの最後に、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)と言われている。「完全」という言葉には、今はこだわらないことにしよう。レビ記19章2節にも「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とあるように、大切なのは、「神の在り方」に倣って生き、「神の見方」から物事を見ることなのだ。我々の教会には、『山上の説教』に従ってこのように生きることが求められている。
ここで、教会の歴史を回顧したい。初めの頃、教会は『山上の説教』に忠実に従って生きていたが、そうした時代は長くは続かなかった。第4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になると『山上の説教』は無視されるようになり、その代わりに「全能者」(パントクラトール)として教会と世界に君臨するキリストの権力が強調された。その頃から、帝国を有効に支配するためには、『山上の説教』はむしろ邪魔だと考えられるようになった。報復・戦争・死刑は盛んに行われ、そのまま何世紀も経過する。
だが、『山上の説教』を無視した結果、世界はどうなったか? 2度の凄まじい世界大戦。その中で起こった南京・アウシュヴィッツ・沖縄・広島・長崎などの悲惨。これらを思い起こせば足りる。人類は、『山上の説教』は現実的でないと言って捨てたが、その結果は惨憺たるものであった。現代人は漸くそのことに気づき、長い間忘れられていたイエスの教えの価値に目覚め始めている。先鞭をつけたのは、トルストイ、ガンジー、キングといった先覚者たちだった。そして、1980年、実戦に使える「中距離核ミサイル」を欧州全域に配備しようという悪魔的な企てが進められたとき、それに抗して全世界で「反核デモ」が起こった。その精神的支柱になったのが、『山上の説教』だったのである。ここに、我々の教会の姿が暗示されているのではないか。