2009.10.25

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「信仰によって義とされる」

村上 伸

ハバクク書2,1-4 ; ローマの信徒への手紙1,16-17

今日の説教では「宗教改革」の意味について述べたいと思うが、いくらか「講義調」になることは避けられそうにない。それはお許し頂きたい。

私たちの教会は、日本基督教団に属する。つまり、「プロテスタント」の教会である。「プロテスタント」とは、大まかに言えば、マルチン・ルターによって始められた「宗教改革」の流れを受け継ぐ教会のことである。本日の週報の『牧師室から』という欄にも書いたように、それは1517年10月31日に始まった。その時、彼は「免罪符問題」に関連して、カトリック教会の方針に抗議(プロテスト)したのであった。そこから「プロテスタント」という呼び名が生まれたのである。

もちろん、「プロテスタント」といっても単純ではない。ドイツでは16世紀半ばまでに「ルター派教会」が根を下ろしたが、スイスでは、ルターの影響を受けたツヴィングリがチューリッヒを中心に改革を推進し、1525年には町全体がこの新しい信仰に改宗している。他方、1533年頃からは、フランス人のカルヴァン(1509年生まれ)が、スイスのジュネーブを中心に強力に改革を推し進め、市民生活も含めて信仰的な生活の新しい形を造り上げた。こうして成立したのが「改革派教会」である。これはやがて、オランダ、スコットランド、さらには南アフリカなどに広まって行く。

このように、源流はルターの宗教改革にあったとしても、その流れは時代の変化とともに枝分かれし、それらはさらに多くの教派に分かれて、今では「プロテスタント」に属する教会は世界中に無数に存在する。これらプロテスタント系の諸教会は、教義や実際面で細かい違いはあるが、大筋においては、いわゆる「宗教改革の三大原理」に立っていると言うことができるであろう。では、「三大原理」とは何か?

  1. 「タダ信仰ニヨッテノミ」という「信仰義認」の原理。人が神の前に義と認められるのは、善い行為、つまり、律法を行うことによるのではない。ただ神の恵みを信ずる信仰による。
  2. 「タダ聖書ニヨッテノミ」という「聖書原理」。信仰の奥義は聖書によってのみ示される。教会の「伝統」や、「公会議の決定」なども重要ではあるが、聖書と並ぶ権威は持たず、最終的には聖書によって判定される。
  3. 「万人祭司」の原理。カトリック教会は聖職者と平信徒を区別し、神と人とを仲立ちする特別な職務はもっぱら聖職者(司祭)に委ねたが、ルターはこれを聖書的な理解に戻した。すなわち、キリストが十字架上の死によって神と人とを永遠にただ一度和解させたのだから、司祭であれ誰であれ、人間による仲介はもはや必要ではない。むしろ、万人が「祭司」の役割を果たすべきだ。それは、相互に、また世界に対して、日々の生活において、キリストによる神と人との和解を証しする役割である。

ところで、代々木上原教会はこれから来年にかけて大きな転機を迎える。この時に当たって、私たちは「私たちの教会はどのような教会であるべきか」という問題を改めて考えさせられている。基本的に言えば、それは、「宗教改革の三大原理に拠って立つ教会」ということになるのではないだろうか。

今日は、第一の「タダ信仰ニヨッテノミ」ということについて述べたい。

人は律法の義を行うことによってではなく、ただ信仰によって神の前で義とされる。これは、ルターが単に頭の中でひねり出した神学理論ではない。彼がこの確信に達するまでには、血の滲むような苦悩と、それに勝る喜びがあったのである。若き日に修道院に入った彼は、その規律に忠実に従い、律法の定める「義」に達するために日夜努力していたが、努力すればするほど自分の罪と弱さを思い知らされた。私たちにも似たような経験があると思う。そのために、彼は「<神の義>という言葉を憎んだ」という。「もし誰かが私に略奪を働いても、私は<神の義>という言葉を聞くときほど苦しむことはなかったであろう」と彼は書いている。彼は、暗い顔をしていた。

ある日、修道院長シュタウピッツがそのことに気づき、「君は自分の弱さだけを見つめていてはいけない。キリストと呼ばれるあの方を見上げるようにしなさい」と忠告した。そのことが、転機をもたらすきっかけになったのだろうか、ルターはやがてローマ書1章16-17節と出会う。そして、聖書の言葉の驚くべき力に打たれた。

彼はこう書いている。「私は長い間、誤りのうちにおり、自分がどこにいるのかも分からずにいた。・・・このような状態は、私がローマ書1章の『義人は信仰によって生きる』という言葉にたどり着くまで続いた」。続けて彼は次のように書く。「遂に私は神の義を、義人が信仰によって生きるように導く義として理解し始めた。<神の義が福音を通して啓示された>という言葉の意味は、・・・憐れむ神がわれわれを信仰によって義とする、そのような義だということである。・・・ここで私は正に生まれ変わったように感じた。そして開かれた門を通って正に天国に入ったように感じた。その時たちどころに、全聖書が私にとって全く別の姿を示すに至った・・・以前に私が<神の義>という言葉を憎んでいた憎しみが大きかっただけ、それだけ一層大きな愛をもって、私はこの言葉を・・・極めて甘美な言葉としてほめたたえた」。

このことが起こったのは、1516年、つまり、彼が『95か条の提題』を張り出した前の年だと言われている。このことは重要である。つまり、宗教改革は、単なる論争からではなく、人間としてのこの深い「喜び」から始まったのだ。私たちの教会も、この「喜び」から歩き始め、この「喜び」に満たされて歩み続け、この「喜び」を互いに分かち合う教会でありたいと切に願うものである。



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