2009.9.27

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「十字架のキリスト」

廣石 望

創世記12,1-9; ガラテヤの信徒への手紙3,1-9

I

「十字架」はキリスト教を代表するシンボルです。じっさい建造物としてのキリスト教会の内外には、十字架が使われています。そして伝統的に、キリスト教の教えで、十字架は「贖罪」という教理に結びついています。キリストが〈私の罪の贖いのために、私の代わりに十字架にかかって死なれた〉という信仰告白があるからです。

「贖罪」の教えは、イエスの十字架の死がどのような意味で救いをもたらす死であったかという問いに答えるものです。この伝統的な解釈に対して、最近の研究では、次のようなことが指摘されています。まずパウロ自身に、「キリストは私(たち)の罪の贖いのために十字架で死んだ」という表現は、ふしぎなことに出てきません。どうやらパウロにおいて、イエスが「死んだ」というのと「十字架にかけられた」というのとでは、意味合いが違うようなのです。十字架刑は、人間のあらゆる尊厳を剥奪する凄惨な惨殺です。この神に呪われた死のかたちは、「贖罪の犠牲」という旧約律法の伝統的な考え方の枠には、かんたんには収まらない。パウロはこの悲惨な死の衝撃をうけとめ、神から最も遠いと思われていた場所に神が自らを示したことに注目しながら、イエスの死の意味を新しく問うた。そしてイエスの十字架の死は、実質的には「贖罪」という伝統的な理解も含めた、従来のあらゆる価値尺度を逆転させるできごとだった、という新しい理解に到達したというのです。

こうしたパウロ理解に対しては、いろいろな批判もあります。まずは、十字架を贖罪の視点から捉えることに慣れてきた者に、違和感があっても不思議ではありません。それは社会的弱者の自己満足的なキリスト理解なのではないか、というやや冷たい批判もあります。あるいは、十字架の悲惨さだけを強調して復活の栄光を無視したのでは、何だかしゅんとなってしまい、力がわいてこないという反応も。

いったい、どのような意味で十字架につけられたキリストが、パウロにとって信仰の根幹だったのでしょうか。それは私たちの日々の信仰生活と、何の関係があるでしょう。

 

II

今日のテキストであるガラテヤの信徒への手紙の背景を簡単におさらいしておきましょう。

ガラテヤ地方は現在のトルコの中央部、首都アンカラがあるあたりという説が有力です。ガラテヤ教会(じっさいには諸教会の連合)は、パウロのいわゆる第二伝道旅行の中で設立されました(使徒言行録16,6)。第三伝道旅行のとき、パウロはこの地域を再訪しています(使徒言行録18,23)。メンバー構成から見れば完全な異邦人教会、つまりユダヤ人のいない共同体です。そして、おそらくパウロの再訪後に問題が生じました。

 それはパレスティナ地方から、パウロの異邦人伝道に対抗するユダヤ人キリスト者による伝道隊が、この地域に派遣されたことに関係します。ユダヤ教では、異邦人の改宗にさいして男性は割礼を受け、その後はユダヤ教律法の諸規定を守って生活することが求められました。ガラテヤ教会にやってきたキリスト教宣教者たちは、キリストに属するためには、洗礼を受けただけではダメで、割礼を受けてユダヤ教徒として生活しなければならないと主張しました。彼らの理解では、キリスト教はユダヤ教の一部だったのです。パレスティナでは、反ローマ的なユダヤ民族主義がくすぶり続けていました。

 他方でパウロは、彼自身もユダヤ人ですが、キリストに属するには信仰告白を踏まえた「洗礼」で十分だ、つまりキリスト教徒になるためにまずユダヤ教徒になる必要はないという理解です。彼の理解するキリスト教共同体は、祭儀および清浄さに関係する諸規定という意味でのユダヤ教律法を遵守することにもとづく契約共同体ではありません。

 しかしガラテヤ教会のメンバーには、ユダヤ主義のキリスト教宣教者たちに説得されて、「割礼」を受ける人々が出てきました。それでパウロは、かんかんになってこの手紙を書いています。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」(1節)。よほど親しくないと、こんなにあけすけな書き方はできません。

 

III

今日の箇所でパウロは、いろんな表現を用いて、彼がかつてガラテヤ地方で行った宣教活動について、ガラテヤ教会の信徒たちの経験を思い起こさせようとしています。

「あなたがたは〈霊〉を受けた」(2節)、あなたがたは「〈霊〉によって始めた」(3節)とパウロは言います。また「あれほどのことを体験した」(4節)、「あなたがたに〈霊〉を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方」(5節)を体験したとも。それを思い起こしてほしいというのです。「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・」(4節

聖霊体験とは生き方の根幹が変えられて、新しい確信が生じるということでしょう(ガラテヤ4,8-9も参照)。神の「力」――新共同訳が「奇跡」と訳す原語――の体験とは、病気治しであったかもしれません。しかしもっと大切なのは、これらの体験を指してパウロが、あなたたちの「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言っていることです。つまり聖霊体験は「十字架のキリスト」をまざまざと体験することと、ひとつでした。

通常、「霊をうける」「奇跡」などは輝かしい神を、つまり「十字架」よりも「復活」を連想させます。なぜパウロは聖霊体験を「十字架につけられたキリスト」と表現するのでしょうか。二つのことが考えられます。

 

IV

一つ目は、パウロの回心体験そのものにおいて、聖霊の力と十字架のキリストが結びついていた可能性です。彼は熱心なユダヤ教徒としてキリスト教会を迫害していた真っ最中に、復活者キリストの顕現に接しました。使徒言行録の叙述によれば、パウロは天からの光に照らされて、「なぜ、私を迫害するのか」という呼びかけを聞きます。「主よ、あなたはどなたですか」と彼が問うと、「私は、あなたが迫害しているイエスである」という返答がありました(使徒言行録9,4-5)。

この報告はパウロの個人的体験の再現というより、かつての迫害者パウロがキリスト顕現に接して宣教者になったという、原始キリスト教世界でよく知られた事件を、後代の教会が一般に分かりやすいかたちで物語化したものです。それでもパウロの個人史において、キリスト顕現という聖霊体験と迫害活動という意味のイエスの十字架は、不可分に結びついています。「私は、あなたが迫害しているイエスである」という復活者の言葉も、そのことを示唆します。

パウロによるキリスト教迫害の動機は、律法への熱心でした。ですから彼にとってキリスト顕現は、律法への熱心に対する否定、そこからの解放として経験されたことでしょう。この根源的な転換の体験が、パウロによるガラテヤ宣教でも人々に伝達された可能性があります。

したがって二つ目は、ガラテヤ教会の信徒たちの教会設立にまつわる体験です。同じ手紙の別の箇所で、パウロはこう書いています(4,13-15)。

知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

 どうやらパウロは病気が理由で、もしかしたら予定していた伝道コースを外れて、たまたまガラテヤ地方に至ったのかもしれません。「体が弱くなる」ことが十字架を、また「あなたがたが味わっていた幸福」が聖霊の働きを示唆します。パウロの病気という、一般的には〈神の使者〉としての正当性を疑わせるようなできごとをきっかけに、ガラテヤ伝道は行われました。ガラテヤ人たちは民族・宗教・言語の違いを超えて、パウロと幸福な出会いを経験したのです。じっさいにはガラテヤ人は異民族であるパウロを看病し、暖かくもてなしたのだと思います。しかも「自分の目を抉り出しても与ええよう」とするかのごとく。

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」(7節)――「信仰によって生きる」とは、ガラテヤ人の経験に照らせば、出会いの中で与えられた信頼関係によって生きることです。パウロは、それこそがアブラハムにかつて与えられたこと、イスラエルの神が初めから望んでおられたことだと言います。ユダヤ人に対しても、また異邦人に対しても。

V

 十字架につけられたキリストが、なぜ信仰の根幹なのでしょうか。それは十字架が、人間としてのイエスの理想や自力が終わりを迎えた場所であると同時に、純粋に神の力が働らいた場所であるからです。その意味で、十字架と復活はひとつです。パウロが「十字架につけられたキリスト」を強調するのは、彼もまたキリストとの出会いの中で、自分の限界ないし実存的な死を通して、神の命が働くという経験をしたからです。それゆえに割礼を受けたり、祭儀や清浄にかかわる律法規定を追加で守るよう異邦人キリスト教徒に要求するのは、霊の働く場所としての十字架の空洞を、不必要な物で埋めてしまうことに見えたのでしょう。

 では、私たちにとって「キリストの十字架」とは何でありうるでしょうか。その答えは、究極的には、私たちの人生という実験を通して初めてえられるだろうと思います。それでも、予感としてこういうことはできるでしょう。それは私が「もう無理だ」と思うような状況の中にも働く、命の創造者である神の霊的な力、幸福と喜びを生み出す力であるに違いないと。



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