私たちの教会は昨年から、7月第2日曜日を「地球環境の日」と定め、危機的な状況にある地球環境を守るために祈り・学び・行動することにしている。今日はその2回目だ。説教テキストも讃美歌も、すべてこのことを念頭に置いて選んだ。
先ず、詩編104編に目を留めたい。この詩は、神が天地万物を創造されたということを壮大な規模で歌いあげたものだ。それも抽象的ではなく、一つ一つ被造物の名をあげて、具体的にその生態を描き出す。「天」(2節)から始まって、「雲」や「風」(3節)、「火」(4節)、「地」(5節)、「水」(6節)、「山々」や「谷」(8節)、「川」(10節)、「野の獣」(11節)、「空の鳥」(12節)、「家畜」や「牧草」(14節)、「レバノン杉」や「糸杉」などの樹木(16-17節)、「野山羊」・「岩狸」・「獅子」などの獣(18節;20-21節)、「月」や「太陽」(19節)、「海」とその中を動き回る「大小の生き物」(25節)など。
これら被造物の生態を描く詩人の観察眼は正確であり、創造主の御業に対する賛嘆の気持ちが溢れている。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(24節)。
だが、この詩を注意深く読んでいくと、一つのことに気づくであろう。それは、人間が少しも特別扱いされていないという点である。「地から糧を引き出そうと働く人間」(14節)と言われている程度で、人間は被造物の一つに過ぎず、森の獣たちとほとんど同格である。若獅子は夜になると出て来て餌食を求めて吠え、朝になるとねぐらにもどる。それと入れ替わるようにして、人間は「太陽が輝き昇ると・・・仕事に出かけ、夕べになるまで働く」(23節)。特別に偉いという描き方ではない。
これに反して近代西洋の思想家たちは、人間をあらゆる被造物の頂点、あるいは中心に置いた。創世記1章26節の「神にかたどって」という言葉を、「人間は他のどの生物よりも優れている」という意味で解釈したのはその典型である。人間は、創造者である神のかたちに似せて造られたのだから、神のように大地を支配することができる。つまり、自然を自分の好きなように利用したり、必要な場合にはそれを作り替えたり、破壊したりする権限を与えられている、と考えた。このような考え方が環境破壊につながったことは、今日、ほとんど定説である。
だが、詩編104編は、人間を自然の「支配者」として描いてはいない。人間は大地の支配者ではなく、他の被造物と並んで自然の小さな一部に過ぎない。ただ、他の動植物とは違って「言葉」という賜物を与えられているので、神に創造された世界の精妙さと美しさを賛美したり、それが永続するように祈ったりすることができる。詩人が、「どうか、主の栄光がとこしえに続くように、主が御自分の業を喜び祝われるように」(31節)と歌ったように。これが、人間の特別な務めである。
また、人間には優れた「知恵」と、道具や何かを創り出す「能力」が備えられている。これらを活かして世界という「園を耕し、守る」(創世記2章15節)のも、人間の責任である。人間は「園守り」として謙虚に奉仕すべき存在なのだ。
アッシジのフランチェスコが死の数ヶ月前に書いた『太陽の賛歌』という歌がある(讃美歌223番)。これには詩編104編との共通点が多くある。田辺保訳が原詩に近いので、やや端折った形だが、それを引用してみよう。
「・・・主をこそほめたたえよ、すべての被造物と共に。わけてもとくに、兄弟なる太陽と共に。朝が来る。主こそはまことの光の源・・・太陽はその主のしるし。主をこそほめたたえよ、姉妹なる月、星のため。大空に月・星を造って下さったのは主。・・・主をこそほめたたえよ、兄弟なる風のため、空気のため、雲のため、澄んだ空、また、すべての季節のために。・・・主をこそほめたたえよ、姉妹なる水のため。水は、とても役に立ち、つつましく、そして、きよらかだ。主をこそほめたたえよ、兄弟なる火のため。・・・主をこそほめたたえよ、姉妹で母なる大地のため。われらを支え、育み、さまざまな果物を生み出してくれる。色とりどりの花や野の草も。主をこそほめたたえよ、主を愛すればこそ人を赦す心を持った人たちのため。苦しみや悩みを耐える人たちのため。平和のために苦しめられる人々は幸いだ。いと高き主が報いてくださる。主をこそほめたたえよ、姉妹なる死、体の死のために。生きる人間は一人も死を逃れられない・・・死ぬときに主の聖なる御心のままの姿とされている人々は幸いだ。・・・主をほめよ、主をたたえよ、主に感謝せよ。心からへりくだって主に仕えよ」。
これを読む度に、私は、「主をほめよ、主をたたえよ、主に感謝せよ。心からへりくだって主に仕えよ」という結びの言葉にとくに心を打たれる。現代の環境問題を考えるとき、人間が「へりくだる」ということは決定的に重要ではないだろうか。
科学史家リン・ホワイトが述べているように、地球環境の危機は科学技術をものにした人間の「高ぶり」や「思い上がり」から生じた結果である。その西洋近代の科学技術の母胎はキリスト教である。だから、「キリスト教は環境破壊の元凶である」と彼は言った。
だが、私たちが拠って立つべきものは近代西洋のキリスト教ではない。イエスの本来の教えだ。彼は「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない」(マルコ10章42節)と言い、真に「謙虚」になって神に仕え、すべての被造物の命の保全のために「奉仕する」ことが人間の本来の在り方だと教えた。詩編104編や『太陽の賛歌』が示しているのもそのことに他ならない。