2009.7.5

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「人を裁くな」

村上 伸

イザヤ書32,15-20ルカ福音書6,37-42

 先日、鷹番小学校のクラス会があった。幹事が親切で、私にも出席し易い日程を組んでくれたので、久し振りに参加した。会が終わりに近づいた頃、ある人が私の傍に来て座り、「実は、今まで中々その機会がなかったのだが、村上君には前からお礼を言いたいことがあってね」と前置きして次のような話をしてくれた。

 五年生のとき、仲間と何か悪さをして(今ではそれが何だったか、さっぱり覚えていないのだが)、先生に見つかったことがある。張本人は別にいたのだが、その子はチャッカリ逃げてしまい、彼ひとりが「ドジを踏んで」廊下に立たされた。クラスの皆は知らん顔をするし、心細く、情けない気持ちで立っていると、「村上君が一人で近づいて来て励ましてくれた。その言葉を、俺は今でも忘れないよ」と彼は言った。

 「何て言ったんだ?」と周りにいる皆が聞いた。「こう言ったんだ。<頑張れよ、夜になるまでには、先生はきっと家に帰してくれるよ>。いやあ、慰められたね」とその人は答えた。全く記憶にないことで、私はやや照れながらその話を聞いていたが、実は内心、ちょっと不思議な感じに打たれていたのである。私はその人にこう言った。「聖書にはこんな思想がある。どんなに辛い・苦しいことでも、やがて終わる。神が我々の涙を残らず拭い取って下さる時が、必ず来る。そして、その時はそんなに遠くはない。これを終末論というんだ」。

 すると、周りにいた連中が一斉に「ああ、それだ!」と叫んだ。「その頃、君はもうクリスチャンだったのか?」と聞かれたが、私はその頃、聖書のセの字も知らなかった。それから話が弾んで、私は思いもかけず楽しい気持ちで皆と別れたのであった。

 今日の箇所にも、その「終末論」がある。むろん、聖書の終末論にはいくつかの側面があって単純には言えないが、最大の特徴が「希望」であることは確かだろう。私がまだ神学生の頃、熊野義孝先生が講義の中で学生たちに向かって、「君たち、終末論というのはね、希望の教説なんだよ」と言われたことがある。終末をただ「恐ろしい最後」というイメージで考えていた私にとっては、目の覚めるような感動だった。

 <夜になるまでには、先生はきっと家に帰してくれるよ!>というのも一種の終末論だが、それよりもずっと大きなスケールの希望。やがて終末が来て、世界の民が現在の苦しみから解放される! パウロが「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(ローマ8章18節)と言ったような希望。

 だが、もう一つの面がある。それは、終末の時には良かれ悪しかれ現在の生き方に対する神の「報い」があるということだ。今日の最初の言葉、「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」(37節)という言葉がそれである。

 「裁かれることがない」というのは、「あなたに裁かれた相手が、仕返しのためにあなたを裁くようなことはない」といった人間関係のメカニズムを言っているわけではない。むしろ、「終末の時に、神によって裁かれることがない」という意味であろう。人を裁かず、人を罪人だと決めつけたりせず、人を心から赦し、必要なものは何でも人に与えるという生き方をしている人は、神の報いとして、厳しい断罪を免れる。37節以下で教えられているのはそのことではないか。「人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」とか、「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」とか、「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」という言葉は、すべて終末論的に理解されねばならない。

 「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(38節)。これは、終末の時に与えられる神の報いがどんなに素晴らしく、豊かであるかということを示す言葉なのである。

 さて、今日のテキストでは、もう一つ大切な強調点がある。それは、「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(41節)という言葉だ。これは、「人を裁くな」という戒めを具体的に展開したものと考えることができる。

 我々は、よく人を裁く。人を「罪人」とか「悪人」とか決めつける。あらゆる問題はその「悪い奴」から来ると考えて非難し、攻撃する。国際関係でもそうである。だが、その時、我々は実に身勝手であって、本当は自分の側にこそ最大の問題があることに気づいていない。イエスはこの点を突いたのである。

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」(41-42節)。

 「まず」自分の目から丸太を取り除け、とイエスは命じる。「先ず自分から」! この考え方は、イエスの多くの言葉を一貫する特徴だ。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を献げなさい」(マタイ5章23-24節)。自分には他人よりももっと大きな問題があるということを先ず自覚する。そして、先ず自分を変えることによって和解を働きかける。

 「人を裁くな」という命令は、具体的に言えばこういうことなのである。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる