ヨハネ福音書14〜16章は十字架の死を覚悟したイエスが弟子たちに残された「訣別説教」で、今日のテキスト(16章25-33節)はその結びの部分である。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)とか、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(32節)というくだりには、別れの感情が強く現れている。中でも、33節が重要である。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。今日、私はこの聖句に集中して考えたい。
ここでは先ず、「あなたがたには世で苦難がある」と言われている。「苦難」には病気・災害・経済的困難なども入るだろうが、イエスが言う「苦難」にはそれ以上の意味がある。それを理解するために、15章18-19節に注目したい。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。また、20節では「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」とも言われた。「苦難」とは、要するに、キリストのゆえに世に憎まれ・迫害されることである。世はキリストを憎んで十字架につけた。同じように、キリストに属する弟子たちをも憎み、迫害するだろう。その意味で、「あなたがたには世で苦難がある」と言われたのである。
キリスト者は、「ここぞ」という肝心な時には、この世の習慣に従わないで、イエス・キリストの戒めに従う。その意味では、両者の間には緊張関係がある。むろん、常に対立しているわけではない。キリスト者は「互いに愛し合いなさい」(15章12節)というキリストの掟に従って生きるから、当然、この世の人々をも大切にする。その救いのために祈り、そのために力を尽くす。初代教会が「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2章47節)のは、民衆がそのことを認めたからだ。日本でも、キリスト者は教育や社会福祉の分野で重要な貢献をして社会から尊敬された。
だが、何かのきっかけでこの世がキリスト者に対して牙を剥くことがある。生き方の原理が自分たちとは違うということを嗅ぎつけ、「異分子」に対する憎しみを爆発させるのである。よい例が、初代教会の有力な指導者ステファノの場合だ。使徒言行録6章8節によると、彼は「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」が、一部のユダヤ教徒たちが「あの男はモーセと神を冒涜する言葉を吐いた」(11節)と民衆を煽動して、ステファノを宗教裁判にかけた。イエスの場合と似ている。「人々は激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりし…大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出した」(7章54節以下)。そして、石を投げつけて彼を殺したのである。
内村鑑三の「不敬事件」もこれに似ている。1891年(明治24年)、第一高等学校の教師であった内村は、学内で行われた「教育勅語奉読式」に際し天皇の署名に対して最敬礼をしなかった。それを見咎めた学生たちや同僚教師たちは、激しい非難・攻撃を彼に浴びせ、彼を退職に追い込んだ。こうして内村は、「日本中に身の置き場もない」と感じたほどの苦難を負わされた。
主イエスは、ご自分に従う者がこのような苦難に遭うであろうということを予見していた。だから、「あなたがたには世で苦難がある」と言ったのである。ただ、それに続けて「しかし、勇気を出しなさい」と言われたことを見落としてはならない。
「勇気を出す」という言葉は福音書にいくつか用例がある。イエスが中風の人を癒したとき、「元気を出しなさい」(マタイ9章2節)と言われたのがそうだ。弟子たちが湖の上で暴風に遭い、湖上を歩いて近づいてきたイエスを見て「幽霊だ」と怯えたとき、イエスが彼らに言われた「安心しなさい」(14章27節)という言葉も同じだ。空元気を煽ったのではない。「彼が共にいるから安心だ」という意味である。
モーセの後継者ヨシュアがイスラエル民族を率いて約束の地カナンに入って行く前、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」(ヨシュア記1章5-6節)という主の言葉を聞いた。これに励まされたイスラエルが行ったことは仮借ない攻撃であった。
だが、イエスが「勇気を出しなさい」と言われたのは、誰かを敵に回して戦うためではない。イエス自身が模範を示されたように、互いに愛し合うため、すべての人と共に平和に生きるため、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」であった。私たちが勇気を出すのは、ただそのためである。愛への勇気。平和への勇気。
最後の言葉に注目したい、「わたしは既に世に勝っている」。これは目に見える現実ではない。現実の陰に隠された神の真実である。そこでは、愛が既に憎しみに勝っており、希望が既に絶望に勝っており、命が既に死に勝っているのである。
NPO「東京自殺防止センター」で30年に及ぶ電話相談の働きをしてきた西原明牧師は、2007年の暮れに「末期がんで余命1年」と宣告された。最後の5ヶ月間、『毎日新聞』の武市カメラマンが彼の折々の姿を撮影し、14日(木)の夕刊にその写真を発表した。西原さんは最後まで自分の仕事をやめず、4月15日に「時が来た」と言って家族や友人に別れを告げたという。このような人の姿は、イエスの「わたしは既に世に勝っている」ということの何よりの証しではないだろうか。