2009.4.19

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「イエスと分かる」

廣石 望

イザヤ書43,1-7ルカ福音書24,13-35

I

 キリスト教信仰の中核には、かつて生きて死んだのちに復活し、今は私たちに聖霊を通して働きかけるイエスへの信仰があります。彼が生きている神の命は、この世の命とはちがい、もはや死によって脅かされることがありません。そのことに対応して、もはや私たちは直接この目でイエスを見ることはできません。その意味で、彼は「いない」。同時に彼は、風のように自由に私たちに働きかけます。その意味では彼は「いる」し、出会うことができます。復活者イエスとの出会いは、そのような〈いない人と出会う〉というかたちをとります。エマオ途上の顕現物語も、そのような視点から物語られています。いくつかテキストの特徴をひろってみましょう。

II

 場面設定(13-16節)では、二人の弟子たちが歩きながら、「話し合い」「論じ合って」います。それは、あたかも地上を歩む私たち信仰者の姿を象徴しているかのようです。そのときイエスが、おそらく後方から「近づいてきて、一緒に歩み始め」ます。物語によると、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。二人の目にイエスは、エルサレムへの巡礼客の一人としか見えていません。

 中央部分は対話(17-27節)と再認知(28-31節)の二つのエピソードからなっています。前半の対話部分では、イエスが二人に声をかけると彼らは「暗い顔をして立ち止まった」とあります。私たちも人生や教会の歩みの中で、ときにこうして立ち止まります。

 弟子の一人クレオパが旅人に事情を説明します。預言者であるナザレのイエスに、イスラエル民族を解放してくれるようにという期待を人々がかけていたこと。しかし神殿指導者たちの策略によって、イエスが十字架刑に処せられてしまったこと。またその三日後の早朝にイエスの墓を訪ねた女性たちが、「イエスは生きている」という天使のメッセージを伝えたこと。そして、じっさいに墓が空っぽであることが確かめられたことなど――これらの情報はしかし、二人にとっては困惑を意味するだけで、いまだに復活者との出会いは起こっていません。

 旅人は、彼らに向かって「モーセとすべての預言者たち」つまり旧約聖書の全体にもとづいて、メシアの受難と栄光(復活)について解き明かしを聞かせました。その具体的な内容は省略されていますが、この筆致の背後には、原始キリスト教を生きた人々が、旧約聖書を読み解きながら、イエスが神の前で本当は何者であるのかを探し続けた、その模索の歴史があります。「説明する」と訳されたギリシア語動詞は、〈首尾一貫したかたちで解釈する〉というほどの意味です。さらに「イエス」がそうしたとあるのは、自分たちが到達した認識はイエスが与えてくれたのだという自己理解の表現です。

 後半の再認知のエピソードは宿屋が舞台です。旅人と同宿し「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これは最後の晩餐(22,19)、また荒れ野の給食の奇跡(9,16)と同じ所作ですね。そのとき彼らの目は開かれてイエスと分かるのです。

 けれど同じ瞬間に、イエスは見えなくなりました。「見えなくなった」とは、復活節の終わりにイエスが天に昇っていった場面でも使われる表現です(使徒言行録1,19)。つまりこの場面は、復活節後に聖餐式を祝っている原始教会の状況と二重写しになっています。

 「目が遮られている」と「目が開かれる」の中間に描かれているのは、途上にある聖書解釈と夕べのパン裂きです。ルカ福音書の最初の読者たちは、二人一組で旅をする宣教者たち、そして彼らを迎え入れて泊めてやる地域に定住するキリスト教徒たちのことを思い浮かべたかもしれません。いずれにせよ共同で行われる聖書の読み解きと、共同の食事の中で、見えないイエスとの出会い、つまり「イエスと分かる」という経験がじっさいに生じたのでしょう。そうでなければ、こんな伝承は生まれなかったと思います。

 物語の結び(32-35節)によれば、二人の弟子たちはただちにエルサレムに帰還します。そして十一人の弟子たちとその仲間たちに合流し、シモン・ペトロへのキリスト顕現がすでに生じていることを確認しました。

III

 この不思議な物語を、「いない人と出会う」という視点から近づくための手がかりとして、ある現代日本の小説を参考にしたいと思います。山田太一『異人たちとの夏』の主人公は、中年になって離婚した脚本家です。深い孤独を経験した彼は、幼い頃暮した町をふらりと訪れ、そこで12歳のときに事故で死別した両親と再会します。父親も母親も自分より若いのですが、彼らはじつに親らしくふるまいます。主人公は両親を失って以来「ほとんど泣いたことがない」そうですけれど、この不思議な出会いを通して、鎧が取れて泣き崩れてしまいそうになりました。他方、これは「幻覚」ではないかと疑ったりもします。やがて新しい恋人もでき、驚くほど創作力が沸いてきて、仕事もどんどんはかどるようになりました。しかし友人からあまりに衰弱が激しいと指摘されたりして、やがて両親と別れることを決意します。三人は最後にすき焼を食べにゆき、そしてだんだん薄くなって消えてゆく両親に向かって、主人公は子どものときには言うことのできなかった言葉、「ありがとう。どうも、ありがとう。ありがとうございました」と感謝の気持ちをしっかり伝えました。

 私たちの文化も、大切な人との出会いは、その人がいなくなっても心の深いところで続くことを知っているのです。キリスト教はこの真実を、復活者イエスとの出会いを通して証言しているように思われます。

 エマオへの途上にあった二人の弟子たちは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と互いに言い交わしました。「心が燃えていた」とは、自分たちが深い意味で真のいのちを生きていることを実感するということではないでしょうか。

 エマオ途上の顕現物語を造形した人々は、ともに聖書を読み続け、ともに生きる人々と命を分かち合うことの中で、自分たちが深いところでイエスと共に真の命を生きている、という実感に目覚めたにちがいありません。それこそが、彼らにとって復活者イエスとの出会いでした。私たちもそうした生の深みに気づいて新しく生きはじめるときに、「本当に主は復活して、シモンに現れた」(34節)という原始教会の復活告白をも、初めて自分たちのものにすることができるでしょう。



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