2009.4.5

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「主の名によって来られる方」

村上 伸

ゼカリヤ書9,9-10ヨハネ12,12-19

 今日から受難週が始まる。この日に、イエスは、十字架が待ち受ける都に入られたのである。12節「大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た」とあるところから、古来この日は「棕櫚の聖日」と呼ばれている。「なつめやし」と「棕櫚」は全く別の木だが、誰かが勘違いしたのだろう。

 マルコ福音書11章では、「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉のついた枝を切って来て道に敷いた」(8節)となっている。これは、王や凱旋将軍、あるいはメシアを迎える儀礼である。群衆は、「イエスこそはこの地上に王国を実現させて自分たちを救ってくれるメシアに違いない」と期待したのだろう。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(13節)という歓呼の声にも、その期待がよく現れている。「ホサナ」というのはアラム語で、「どうか私たちをお救い下さい」という意味である。

 しかし、イエスは、群衆が期待していたような強いメシア、白馬にまたがった威風堂々たるメシアとして現れたのではなかった。「ろばの子を見つけて、お乗りになった」(14節)のである。あまり「カッコ良い」とは言えない!

 ところで、ロバは耳の長い小型の馬である。野生のロバは聞き分けがなくて「どうしようもない」が、上手に飼い馴らすと従順で我慢強く粗食にも耐えるので、荷物を運んだり畑を耕したりするために利用された。また、原付自転車のように手ごろな乗り物としても重宝された。旧約聖書にもよく登場する平和な生き物だ。

この点で馬は全く違う。馬は、ずっと体が大きいし力も強い。それに、猛スピードで走ることも出来るから多くは軍用に使われた。ヨブ記39章20-25節、「馬のいななきには恐るべき威力があり、谷間で砂をけって喜び勇み、武器に怖じることなく進む。恐れを笑い、ひるむことなく、剣に背を向けて逃げることもない。…ラッパの合図があればいななき、戦いも、隊長の号令も、鬨の声も、遠くにいながら、かぎつけている」と言われている通りである。

 列王記上5章6節によれば、ソロモン王は12,000人から成る騎兵部隊を持っていたという。軍馬用の厩舎は実に4万棟に及んだ。あの当時、これは最新鋭の軍備であった。だが、このように軍備を増強することは神への信頼を捨てることに他ならない、と預言者イザヤは批判している。「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない」(イザヤ書31章1節)。

 さて、ヨハネは言う。「主の名によって来られる方」(13節)は猛々しい軍馬ではなく、小さくて柔和なロバの子にまたがって来られる、と。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」(15節)。

 これは、ゼカリヤ書9章9節後半の引用である。ヨハネは元の文章をやや短縮したので、そのままを引用する。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」

 「ろばに乗る」とか「雌ろばの子であるろばに乗る」というのはどういうことだろうか? ゼカリヤは、「高ぶらない」という意味でその表現を使ったのである。「高ぶることなく、ろばに乗って来る」。それが「神に従う王」の姿なのだ。

 このことは、10節前半の言葉によってさらに明確になる。すなわち、「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」

 イエスが「雌ろばの子であるろばに乗って」エルサレムに入られたということは、軍事力によって問題が解決できるかのような考え方を廃絶するために来られた、ということを意味するのではないか。

 先週、アメリカのオバマ大統領とロシアのメドベージェフ大統領が会談して、「核軍縮を思い切って進める」ことで合意したと伝えられた。歓迎すべきことである。だが、核「軍縮」だけでは十分ではない。あらゆる核兵器を、あるいは、軍事優先の考え方そのものを廃絶しなければならない。神は「エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」。ゼカリヤだけではない。イザヤやミカなどイスラエルの預言者たちは、また、詩人たちも、これが神のみ旨であると信じていた。そして今、イエスは「この主の名によって」来られる。

 彼は、そのために苦しみを受け、御自分の命を捧げられた。これは決して「無駄死に」ではない。イエスは、世界史の中に全く新しい一頁を刻むために大地に落ちた一粒の種なのだ。彼の死は多くの実を結ぶ。復活とはそういうことに他ならない。

 かつてヨーロッパのどこかの小さな美術館で、木製のロバを見たことがある。背中には素朴なイエスの像がちょこんと座っている。四本の脚にはそれぞれ車がついている。どうやら、村の子供たちがこれを引っ張って歩いたらしい。ロバに乗って来られた主イエス! その村には、棕櫚の日曜日にそうする習慣があったのだろうか。

私にその才能と余力があれば、そういうロバを作りたい。丈夫で軽く、愛らしいロバを。そのロバを教会学校の生徒たちが皆で引っ張って教会の周りを歩くのだ。



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