2009.3.29

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「できるかぎりのこと」

廣石 望

申命記15,1-11マルコ福音書14,3-9

I

三月末は卒業式の季節です。勤め先の学校でもいろいろな行事が行われます。学位授与式には、娘や孫の成長を祝うため家族の人たちが大勢やってきます。親御さんたちは一様に、晴れがましい表情をしておられます。私たちも喜びを分かち合います。卒業パーティではホテルの大きなホールを借り切って、着物やドレスに美しく着飾った卒業生たちとともに最後の別れの宴を祝います。子どものために「できるかぎりのこと」をしてやりたいという親心は、いつの世でも変わらないと感じます。

他方で目を社会に転じると、私たちの社会は大不況の真っ只中です。中小企業の倒産が止まりません。三月の決算期を迎えて、さらに失業者が増えるだろうといわれています。先日私たちの教会は、美竹教会の呼びかけで始まったいわゆる「派遣切り」労働者のための支援活動に連帯して献金を送りました。さいわい経堂緑岡教会の信徒のご好意で一軒の家を借りることができ、「光ホーム」という名の自立と信仰を目指す共同体がスタートしたと聞きました。

この方たちの生活を思えば、豪勢な卒業パーティは、ちょっと浪費が過ぎるんじゃないかという思いが胸をよぎります。不況の時代には、あらゆる事業体が予算縮小を迫られます。「望ましいもの」と「必要なもの」を区別することが求められるわけです。先日、新しい予算案が国会を通過しましたが、それは「いま最も必要なもの」は何かをめぐる議論の結果であるはずです。

つまり一方には、子どもたちに「できるかぎりのこと」「望ましいもの」を与えたい、愛する者を美しく飾りたいという気持ちがあり、他方には、社会の中で「いま最も必要なもの」に必要なだけのお金を振り分けることが決められる。これが私たちの社会です。愛情と必要の間には、ある独特な落差があります。それは愛情が、理性の限界を超えて無限に与えることである一方で、予算は、効果をねらって最も合理的に判断した結果の、必要限度内での分配であることに関係するでしょう。

愛情と必要性の間の落差は、今日の聖書テキストにもあらわれます。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」(4-5節)――いったい私たちは、どのように自分のお金を使うべきなのでしょうか。愛することと必要なことの関係は、どうあるべきなのでしょうか。

 

II

ベタニアでの塗油物語は、マルコ福音書の受難物語に属します。この物語は、エルサレム神殿を中心とした指導者たちによるイエス殺害の計画(14,1-2)と、直弟子であるユダによる裏切りの企み(14,10-11)のエピソードに、その前後を囲まれています。

これに対応して物語の内側にも、イエスの十字架の死を予感させる筆遣いがあらわれます。イエスが弟子たちにむけて語る、「わたしは〔あなたたちと〕いつも一緒にいるわけではない」(7節)という言葉、あるいは女性の行為をさして「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(8節)というのも同様です。

物語の枠と内側にイエスの受難を示す要素があらわれる一方で、物語の結びにはひとつの明るい視野が開けています。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(9節)というイエスの言葉です。この発言は、イエスの死と復活の後に福音宣教をスタートさせた原始キリスト教会を視野に入れています。暗闇の中で彼女の行為だけが、復活節の光を反射して輝いているかのようです。

 

III

この女性がイエスにした行為は何だったのでしょうか。

まず目立つのは、イエスと女性が出会った場所と状況の異常さです。イエスはベタニア村の「重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いて」いました(3節)。「重い皮膚病」(ギリシア語「レプラ」)は、当時のユダヤ教社会で、最高度の祭儀的な穢れと見なされました(レビ記13-14章を参照)。そうした人が触ったモノにふれるだけで、穢れが伝染すると考えられました。つまりイエスは自ら進んで、穢れの中に入っていったのです。ベタニア村そのものが、見棄てられた人々の暮す場所であったかもしれません。

さらにイエスは、その家で食事をしています。食事は、ユダヤ教の清浄規定が最も神経質になる領域です。レストランで食事をすることに慣れてしまった私たちには、もはや想像することも難しいのですが、どの食材を誰がどのような手順で調理し、どのように洗浄した食器に盛り付けて、誰といっしょに食べるかは、祭儀的な清浄さに関わる重要な問題でした。重い皮膚病の人の家の客人となり、その家で調理された食事をともに食べるとは、イエスが社会のタブーを乗り越えて人々と交流したことを強く示唆します。

次に女性の行為は、「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(3節)と描写されます。「ナルド」とは、インド原産のオミナエシ科に属する植物(日本名「甘松香(カンショウコウ)」)の根から調合される高価な香油です。残念ながら、私はその芳香を知りません。「石膏の壷」と訳されたアラバストロンは半透明な乳白色の石材で、食器などに加工されました。彼女はこの壷を「壊し」て、つまり一壜の香油をすべてイエスの頭に注ぎました。

 香油を注ぐことには、いくつかの意味があります。まずは、客人をもてなし好意を示すこと――今でもトルコでバスに乗ったりレストランに入ったりすると、客人の手にオードトワレを注ぎかけてくれます。つぎに娼婦やフルート吹きの女性たち、つまり公共の場で家族でない男性にサービスを提供する女性たちが自分を飾るためにも、香油は使われました。さらに重要なのは、死者の遺体に注いで弔いの儀式を行うための使用です。全部を注いだしるしに、壊した壷を棺のそばに置く習慣もあったそうです。そして何よりもメシア/キリスト(語義は「油注がれた者」)への叙任があります。

私たちの物語では、「良いこと」(6節)をしてくれたという表現はおそらく客人へのもてなしを、「埋葬の準備」(8節)という発言は明らかに死者の弔いとの関連を、それぞれ示しています。同時に暗黙裡に、死にゆくイエスこそがメシア(キリスト)である、という意味関連が示唆されているのかもしれません。――何れにせよはっきりしているのは、タブーを破って被差別者シモンの家で客人となったイエスの人格をこの女性が信じたこと、イエスに最大限の敬意と好意を示したことです。

 ところが、このふるまいを見た「何人か」の人々は「憤慨」し(4節)、女性を「厳しくとがめた」(5節――原義は「ぶりぶり鼻を鳴らして憤る」)とあります――「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(4-5節)。

「無駄使い」と訳されたギリシア語「アポーレイア」の原義は、破滅・損壊・台無しです――「何のために破壊は、この香油の損壊は生じたのか?」。人々の怒りの論拠は、理性的な計算です。「三百デナリオン以上」とは、日雇い労働者のおよそ一年分の給与に相当するでしょうか。これを貧者への施しに用いることができたのにと彼らは言います。そして貧者への施しは、律法の命じるところでした。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15,11)。

 

IV

 この理性的で、きわめてまっとうな計算に対して、イエスは女性の行為を弁護します(6-7節)。そのさいに彼は、例えば自分が貧者たちよりも理性的に見てもっと価値があるといった新しい計算を提示しません。むしろこの瞬間が一期一会の出会いであることを強調します。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした」(6-8節)。イエスとの個別的な出会いがこの一度きりであること、彼女がイエスの中に無限に重要な人格を見てとったことが、この浪費を正当化する根拠です。

考えてみれば出会いはいつでも一回切りであり、数量化して比較することができません。そして自発的な贈り物もまた、いつも出会いの一回性に対する感謝と愛情の表現です。この女性は、自分がもっていた最高のものを浪費することで、イエスに対する好意と愛情を表現し、彼を飾ったのでした。

 このふるまいについてイエスは、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも彼女の記念として語り伝えられるだろう」(9節)と言います。ギリシア語原文に「彼女の記念」とあるのを、新共同訳がその「彼女の」を省略するのはよくありません。福音とは、イエスとの個別的な出会いの経験を無限に大切なものとすること、つまり彼を神の子、キリストと信じることです。イエスとの一回的な出会いの中で、「できるかぎりのこと」を通して彼を美しく飾った女性の行為は、復活節を通して明らかになったイエス・キリストへの信仰の原型のように見えます。だからこの行為は、彼女の記念として語り伝えられるのです。

 

V

 愛情と理性は相互にどのように結び合わせればよいか、という最初の問いにもどりましょう。その手がかりに、今年二月、学生たちと研修旅行で再びインドを訪れたときのことをご紹介します。

毎年のことですが、学生たちが困惑することのひとつに、路上で物乞いからお金を求められるという体験があります。どう感じたかを何人かの学生が語ってくれました。物乞いは恥ずべきことであると教わってきたので、それをしている人をまともに見ては失礼に当たると思い、見て見ぬふりをしたという学生がいました。一時的にお金をあげても、よいことをしたという自己満足に終るだけで、本当にその人を助けたことにはならないと思ったという人もいます。そして、そもそも外国人観光客ではなく、自国の政府が包括的な政策を講じるべきだというもっともな意見もありました。なんだかひったくりにあっているようで怖かった、という率直な感想もありました。あるいは本当にいまお金を必要としているのかどうか、見ただけでは分からなくて困ってしまうという意見も。本当に必要でない人にはあげる必要はないし、あげたくもないという意味だと思います。

 いろいろ話し合うことの中で気づいたことに、以下のことがあります。まず「ください」と願うことは、問答無用で奪うこととはまったく違うということです。物乞いは、かっぱらいではありません。それから同じ人間として同情を禁じえないという感情は自然なものであり、ましてや喜捨をおしなべて偽善とみなす習慣はインドにはありません。基本的に多くの人が、かなりすんなりと他人にモノやお金をあげます。それからもっと根本的なのは、与えることは人間同士が支えあう行為であって、貸し借りの関係とは別物であることです。

一夜の宿を恵んでもらった被差別者の村で出会った一人の女性から、イエスは溢れんばかりの贈り物を受けました。私たちの国の予算配分も、その目的が景気回復などの経済対策では本来なく、私たち一人ひとりがともに生きることである限り、共感すること、共に苦しむこと、愛情を表現することからまったく切り離されたものであってはならないと感じます。「光ホーム」からお一人の方が、先週わざわざ私たちの礼拝に参加して、心づくしの感謝の言葉を述べてくださったではありませんか。「できるかぎりのこと」を通してイエスを美しく飾るという素朴な信頼のふるまいは、出会いを通して与えられる人の尊厳と愛情の本来の姿を、またそうした出会いが「神の子」キリストとの出会いに連なっていることを私たちに教えていると思います。



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