2009.3.15

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「主に目を注ぐ」

村上 伸

詩編25,15-22コリント二1,8-11

 今日は受難節第3主日である。この日は昔から「オークリ」(oculi)と名づけられている。ラテン語で「目」という意味である。日曜日の呼び名としてはいささか奇妙だが、それはこの日の礼拝の入祭文に詩篇25編15節が朗読されたことに由来する。

 この箇所は、新共同訳ではわたしはいつも主に目を注いでいます」となっているが、より正確には、わが目は常に主に向う」である。

「わたしは…主に目を注ぐ」と「わが目は…主に向う」とでは、微妙に違う。微妙だが重要な違いだ。「わたしは…主に目を注ぐ」と言うとき、「意識して見ている」という感じが付きまとうが、「わが目は…主に向う」という場合は、特に意識的ではない。むしろ、自然に「目が主の方に向く」という感じが強い。あるいは、「わたしの目は主の方に引きつけられる」と言った方がいいかもしれない。これは、私たちがある人と、またはある事柄と出会うとき、よく経験することではないか。

 恩師・鈴木正久牧師は、自伝『王道』に入信前後の体験を書いておられる。先日、必要があって読み返したが、改めて胸を打たれた。彼は16歳位までは、お父さんの影響もあってキリスト教が大嫌いだったという。ところが、ある日、お姉さんにいわば無理強いされるような形で、郷里の小さな教会の伝道集会に出席した。そこで牧師の息子であるSさんという青年と出会う。彼は勉強がよく出来て東京の大学に進んだのだが、結核性の病気を患ったために休学し、郷里に帰って療養していた。鈴木先生はこの人の中にある「真実なもの」に動かされて、教会に行くようになる。

 その頃、一人の砂利採り労働者がよく礼拝に来ていた。軽度の知的障害があり、とくに話を交わすわけでもなく、ただ座っているだけで、集会が終わっても中々帰ろうとしない。昼も夜も当たり前のように牧師の家族と一緒に食事をする。牧師一家の家計は楽ではなかったし、病人もいる。そのことを鈴木先生は知っていたから、その砂利採り労働者に対しては余り好い感じを持っていなかった。

 ある晩、その人がやっと腰を上げて帰ろうとした。靴を履こうとするのだが、紐がうまく結べない。すると、このSさんがつと土間に下りた。その頃、彼にはもう脊髄カリエスの症状が出ていて、固いコルセットを着物の下につけており、動作も不自由になっていたのだが、そのSさんがその人の足もとに膝まづいて、靴紐を結んであげたのである。鈴木先生は書いている。「わたしはほんとうにハッとした。汚れた仕事着のひとりの人、あの砂利採りの人の前にひざまづいているSさんの姿、――立って見下ろしているわたしの前にうつむいた背を見せていたSさんの姿は、わたしが生きている限り、わたしの心の網膜に焼きついている」(60頁)。

この時、先生はとくに意識してSさんの姿を見たのではないであろう。Sさんのその姿が彼の心に沁みたのだ。そして、彼の全人格を激しく揺さぶって、「心の網膜に焼きついた」のである。およそ真実な出会いとはこうしたものだ。

 「わが目は常に主に向う」という聖句も、このような出会いを示唆しているであろう。詩人は、「わたしは貧しく、孤独です」(16節)と嘆いている。彼は悩んでいる。彼の心には耐えかねるような「痛み」(17節)もある。だが、この「貧しさと労苦を」(18節)神はご存知だ、と彼は信じていた。彼は若い時から、「主は恵み深く正しくいまし、罪びとに道を示してくださる」(8節)ということを教えられて来た。そのことを思い起こす度に心を打たれる。だから、彼の「目は常に主に向う」のである。

 詩人は、モーセがホレブの山の上で神と出会った時のことを思っていたのかもしれない。モーセが神の名を訊ねると、神は「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)と答えたという所だ。これは、あなたがどこへ行こうとも、「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)という意味である。「ヤハウエ」という固有名はそこから来たと言われる。私がどこにいようとも、たとえ苦しみのどん底にいようとも、必ず私の傍にいると約束して下さった神。「インマヌエル」(神、我らと共にいます!)の原事実(滝沢克己)。それが「主の道」なのであり、詩人はこの「主の道」に心を惹きつけられていたのだろう。だから、「わが目は常に主に向う」と言う。

 さらに言いたい。預言者イザヤは「主の僕」という不思議な人物について証している。この「主の僕」は、「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(イザヤ書42章2-3節)。つまり、大声で居丈高に人を脅したりせず、ただ真実の力によって弱い立場の人を助ける、というのだ。そして最後は、自らの苦しみによって人類の罪を担う。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちには平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53章5節)。この点に、私たちの目は惹きつけられる。「わが目は常に主に向う」

 そして、イザヤのこの預言は、御子イエスにおいて成就した。彼は、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(ペトロ一2章23-24節)。この主イエスに、私たちの目は惹きつけられる。こうして、詩人の「わが目は常に主に向う」という言葉は、私たちすべての人間のものとなるのである。



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