2009.3.1

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「悪魔の誘惑」

村上 伸

申命記8,2-10;マタイ福音書4,1-11

 イエスは「“霊”に導かれて荒れ野に行き…40日間、昼も夜も断食した」(2節)という。受難節が40日間と定められたのはここに由来する。

 40日の断食で空腹になったイエスのところへ悪魔がやって来て、手を変え品を変えて彼を誘惑しようとした。それが今日読んだ福音書の物語である。

 一体、「悪魔」とはどのような存在なのだろうか?

 第4世紀始め頃のエジプトに、アントニウスという修道士がいた。「明日のことを思い煩うな」というイエスの言葉に心を強く動かされて修道生活に入ったという。空っぽの墓の中に住んだりして20年ほどはただ独り隠遁の生活を送った。その間、化け物の姿をした悪魔に引きずり回されたという伝説がある。この伝説に基づいて描かれたのが、マティアス・グリューネヴァルトの「聖アントニウスの誘惑」(1515年ごろ)という絵だ。恐ろしい化け物の姿をした悪魔がアントニウスに襲いかかり、噛み付いたり髭を引っ張ったりしている。動揺する信仰や内に燃える欲望など、さまざまな内面の戦いをこういう形で表現したのだろう。画家の想像力には驚くほかはない。

 同じ頃のドイツの画家でルターの友人でもあったルーカス・クラナッハは、「殺すな(第六戒)」(1516年)という絵を描いている。事情は分からないが、一人の男が剣を振りかぶって善良そうな老人を殺そうとしている。その男の背後に密着するように、気味の悪い巨大な鳥の形をした悪魔が立っている。クラナッハは、人殺しを唆し・実行させるのは実は悪魔だ、と考えていたのかもしれない。

 だが、聖書は、グリューネヴァルトやクラナッハとは違って、恐ろしい化け物の形で悪魔を描き出すことはしない。大抵の場合、サタンは言葉によって影響力を行使する存在である。たとえば、ヨブ記に出てくるサタンは中々雄弁であって、神を相手取って真っ向から議論をしている。それも「ああ言えばこう言う」といった調子で、簡単には引き下がらない。それが悪魔の特徴だ。

今日の箇所でも同じである。悪魔は先ず、お腹を空かしたイエスの足元を見透かすように、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)と挑発する。この悪魔の言葉は、当時の教会が経験していた誘惑を暗示していると考えられる。すなわち、「イエスが神の子であるなら、我々が腹を空かせているような時には、神通力を働かせて我々に都合の良いように問題を解決してくれるに違いない」というような、安易で自己本位の信仰(?)への誘惑である。

 むろん、これは真の信仰とはいえない。自己中心的な願望に過ぎない。だから、イエスは申命記8章3節の言葉によってそれをキッパリ斥ける。もちろん、3節だけを断片的に切り取って呪文のように唱えたわけではない。申命記8章はイスラエルの「40年の荒れ野の旅」(2節)、特に「マナの奇跡」(出エジプト記16章)を想起している所だが、彼が引用した3節は、本来、次のようなものであった。食料が尽きるという苦しい試練も、「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためであった」。イエスが言いたかったのはこのことなのである。神はどんな苦難の中でも、人間の不安や恐れを越えて、常に共にいて下さる! この信仰によってイエスは、「石をパンにしろ」という悪魔の要求を斥けた。つまり、荒れ野でイスラエルの民が洩らした「肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べたい」というような自己中心的な願望を斥けたのである。

 だが、悪魔は引き下がらない。次に悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」(6節)と唆した。しかも、悪賢いことに、詩編91編11-12節「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」という聖句を引用する(6節)。自分に神の子としての奇跡的な能力があるなら、それをここで証明して見せろ、というわけである。だが、イエスはそのような自己顕示欲とは全く無縁の生き方を貫いた方であった。彼が得意になって自らを誇示したことは一度もない。一切を神に委ねて生きた。だから、悪魔のこの誘惑にものらない。「あなたの神である主を試してはならない」(申命記6章16節)という聖句によってそれを一蹴する。

 最後に、「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せた」(8節)。そして、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)と言った。富と権力への誘惑だ。この誘惑は強力である。だが、イエスは、「退け、サタン」(10節)と一喝する。

 この言葉は、イエスが自らの十字架の苦しみを予告された時、「主よ、とんでもない。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と諌めたペトロを叱って言われた言葉と同じである。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8章33節)。このことは重要である。

 イエスは、自ら十字架の苦しみを引き受けることによって人類を罪から解放することこそ、自らに与えられた使命であると信じていた。悪魔はそれを否定して、それよりはこの世の栄華と権力を手に入れた方がいいと提案する。だが、あのイエスがどうしてこのような悪魔の提案に同意することができるだろうか?

 悪魔の誘惑は昔も今も存在する。自己中心的な欲望への誘惑、自己顕示欲への誘惑、そして、権力欲への誘惑である。だが、これらの誘惑に屈した人たちの末路は明らかだ。イエスがそれらを斥けられたということの意味はそこにある。



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