2009.2.22

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「たとえ全世界を手に入れても」

村上 伸

イザヤ書43,16-20;マルコ福音書8,31-38

受難節前の最後の日曜日に、イエスの「受難予告」について考えることは時宜に適っている。31節がその「受難予告」である。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。

このような予告を、イエスは三度語っている。マルコでは今日の箇所が最初で、9章31節が二度目、三度目は10章33節だ。日本語でも「三度目の正直」とか「仏の顔も三度」という言い方がある。二度までは偶然が重なることがあるが、「三度」となると偶然では済まされない。イエスがゲッセマネの園で夜通し祈られた時、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。・・・しかし、御心に適うことが行われますように」(14章36節)という苦しい祈りを「三度」繰り返されたという。心の底から、渾身の力を込めて祈った、ということである。

受難予告が「三度」繰り返されたというのも同じ意味であって、イエスは明確な決意をもって苦しみを自分の身に引き受けたのである。その決意は、「必ず・・・することになっている」という言い方からも窺える。この言葉は、ギリシャ語では「デイ」といい、神の計画によって必然的に決まっているという意味だ。いわば「神の必然性」である。ルター訳では「ねばならない」となっている。イエスは、これから自分が体験するもろもろの苦しみは神によって定められた「必然性」だから避けるわけにはいかない、私は「苦しまなければならない」、と覚悟を決めたのである。

ところが、ペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」32節)という。その諌めの言葉は、「主よ、とんでもない。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(マタイ16章22節、佐藤研訳)というものであった。

何故、それが「とんでもない」のか? 「そんなことがあなたに起こるはずがありません」というのは何故なのか? 実は、ペトロはこの直前にイエスに向かって「あなたはメシアです」(29節)と告白しているが、そのメシア理解と関係があるであろう。

ペトロは後期ユダヤ教黙示文学の影響を受けたと思われるが、そのメシア思想を代表するのはダニエル書7章13-14節である。世界の終末に際して次のようなことが起こる、という。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」。

ここでは、終末の救い主である「人の子」は、天の雲に乗り、栄光に包まれて到来する力強い支配者であり、すべての民が彼に仕える、と考えられている。その「人の子」(メシア)が、こともあろうに、苦しめられ・排斥され・殺されなければならないというのは、ペトロにとっては全く理解できないことであった。彼が言下に、「主よ、とんでもない」と否定したのはそのためである。

しかし、イエスにとって「人の子」は、マルコ10章42節以下においても明らかなように、栄光に満ちた「支配者」として「権力」を振るう存在ではない。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」45節)。しかも、「人の子」という表現は、マルコ福音書ではもっぱらイエスの受難との関連で使われている。すべての人を愛し、その僕となって仕え、愛のゆえに苦しみを忍び、自らの命を献げること。ここに、イエスは御自分の使命を見ていた。それは、彼にとっては「神の必然性」であった。それを否定することは、「神のことを思わず、人間のことを思う」33節)ことに他ならない。だからイエスは、「サタン、引き下がれ」とペトロを叱ったのである。

それからイエスは、群衆と弟子たちに対して、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」34節)と命じられた。このことの意味も、以上に述べたことから明らかであろう。イエスに従う道は、自分たちの栄光を第一に考える道ではなく、そういう考え方を捨てて他者に仕え、自分の十字架を背負って歩む道なのだ、とイエスは言われる。

これは余りに厳しすぎる道だ、と多くの人は感じるかもしれない。だが、この厳しい言葉は真理である。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」35節前半)というイエスの言葉は、それが真理であることを告げている。

ここで我々は、昨年来、世界で起きたことを思い起こす。無数の人々が自分の栄光を第一に考える道を進み、節度を失った貪欲の虜となり、他者を犠牲にしても自分たちの繁栄を求めることに狂奔した。そのためには戦争を始めることも厭わず、残虐な兵器を生産し、無差別に使用することも敢えてした。将来の世代や地球の将来を考えるよりも目の前の利益を上げることを優先し、この道を進むことが「自分の命を救う」ことであり、「安全保障のための唯一の方法」だと考えた。いや、「これこそ人生の目的だ」と勘違いした節がある。このやり方で、確かに経済大国は全世界の富をかき集めた。「全世界を手に入れた」と言えるかもしれない。だが、その代価として、これら経済大国は国家のシステムそのものを麻痺させた。「自分の命を失った」のである。

今、心ある人々は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」36節)というイエスの言葉を身に沁みて思っているのではないか。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」37節)。

今こそ我々は、「福音のために命を失う者は、それを救う」というイエスの言葉の深い真実に心を向けなければならない。



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