2008.12.24

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「羊飼いたちが聞いた天使のメッセージ」

村上 伸

ルカ福音書2,8-14

 今夜は、ルカ福音書2章の美しい物語によって主イエスがお生まれになった夜のことに思いを馳せたい。

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(8)とある。当時、羊飼いは、アラビア半島などに今も住む「遊牧民」(ベドウイン)と同様、羊の群れを連れて草のある場所を探しながら移動していた。常に羊と一緒に暮らしているので着る物も汚れているし、異様な臭いがする。そのために町の住人からは「卑しい職業」の者として差別され、警戒されていた。

そんな羊飼いたちが「野宿」をして夜通し羊の群れの番をしていた。「野宿」と言えばロマンチックに聞こえるかもしれないが、そんなものではない。戦時中、私は軍隊の学校で「野営訓練」を受けたことがある。背中は痛むし、夏でも明け方は冷えるから、とても安眠などできない。羊飼いの場合は、それが毎晩続くのだ。

しかも、辺りは真の闇である。現代社会では「真っ暗闇」が無くなったと言われる。漆黒の闇は得体の知れない不安や恐れをもたらすものだ。光の洪水に囲まれて生きている現代人にはそのような不安や恐怖は理解できないかもしれないが、羊飼いたちは夜毎、真の暗闇に囲まれて、絶えず何かに怯えていた。いつ狼に襲われるか分からないし、大事な羊を羊泥棒に盗まれる恐れもある。

しかし、「不安」という点から見れば、現代人もあの頃の羊飼いたちとそれ程違わない。今夜は「クリスマス・イブ」で、多くの人がクリスマスの華やかなイルミネーションの中でパーティーなどを楽しんでいるだろう。だが、私たちは知っている。無数の人々が今、大きな不安の闇に閉ざされているということを。

米国発の金融破綻に始まったグローバルな経済危機が、今、全世界を打ちのめしている。100年に1度といわれる不景気で働く人たちが大量に解雇され、特に「非正規雇用者」は職場だけでなく住まいまで奪われている。来春卒業予定の大学生や高校生の「内定取り消し」も相次いでいる。企業や政府は、何とか対策を講じようと努力はしているようだが、焼け石に水の状態だ。

その中で、人々は大きな不安を感じ、心に恐れを抱いている。「後期高齢者」の年金や医療に関わる不安。若い母親が安心して子供も産めなくなるのではないかという不安。子供たちの教育に関わる不安。戦争を美化する人たちが増えているのではないかという不安。さらに、「誰でもいいから殺したかった」という理不尽な動機による「通り魔事件」や、いたいけな子供たちを殺す悲惨な事件が頻発している。こうした不安を象徴するように、日本の自殺者の数は年間3万人を越えた。闇は深い。

だが、不安に怯えていた羊飼いたちに、天使は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」10-11節)と告げたという。このメッセージに耳を傾けたい。

天使とは、私たち人間が恐れたり絶望したりしている時に、神が差し伸べて下さる大きな掌の「温もり」のようなものだ、と言ってもいい。そのメッセージは、「恐れるな」であった。恐れなくてもいい。「今日」(=あなたがたが不安に怯えている正にその時に)、「ダビデの町で」(=実際に存在する地上の町、しかも、神の約束の場所で)、「あなたがたのために」(=何らの差別もなく、すべての人に)、「救い主がお生まれになった」(=あなたを絶望の中から救い出す方が生まれた)。

私たちは、この天使のメッセージを信じることができる。「救い主」(=イエス)は、貧しい大工の息子として生まれ、30年の短い生涯の間、出会うすべての人々、特に苦しんでいる人々を心から大切にし、その「愛」の力によって人々を生かした。最後は無残にも十字架にかけられて殺されたが、決して暴力によって報復しようとはせず、むしろ、自分をそんな目に遭わせた人々を赦して下さいと神に祈って死んで行った。そのような方がこの暗い世界に生まれ、人々の苦しみを担い、そのことによって苦しむ人の救いとなったということは、私たちの世界が決して見捨てられてはいないということを意味する。その「しるし」が、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」12節)だ、と天使は言うのである。

貧しい馬小屋に生まれ、ボロ布にくるまれて寝ているイエス。苦しみの多い、貧しい民衆の只中に生まれて来て、その苦しみを担ったイエス。このことは、「神がイエスを通して苦しむ人の傍にいて下さる」ということの証だ。そして今日では、神はそれを「苦しむ他者のために尽くす善意の人々」を通じて行われる。

12月16日の『毎日新聞』に、「東京自殺防止センター」で電話相談の仕事をしている人物の話が詳しく紹介されていた。大きな写真を見て見覚えのある人だと思い、よく読むと、やはり私の東京神学大学時代の同級生・西原明さん(80歳)だった。彼は大阪・島之内教会の牧師を長く努めていたが、自殺する人が年々増えるのを黙って見過ごすことができず、1978年に「自殺防止センター」を立ち上げ、教会の部屋に2本の電話を引いて電話相談の仕事を始めたという。引退後は、東京・新宿でその仕事を続けているが、しばらく前に大腸にガンが見つかった。転移もあって、昨年、「余命は1年」と告げられた。しかし、彼は「命というものは不思議なもんだね。人は他人の死を通して死を学び、自分の死を前にして生を意識するんだ」と言いながら、落ち着いて仕事を続けているという。

こういう人は、大抵、社会の片隅で黙々と愛の業を実践しているが、「救い主が生まれた」ということは、「このような人たちが生まれる」ということでもある。そのことを知るとき、私たちの心は優しい光に満たされる。共に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美したい。



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