2008.12.14

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「来るべき方は」

村上 伸

イザヤ書35,1-10;マタイ福音書11,2-6

洗礼者ヨハネは、このとき「牢の中」2節)にいた。死海東岸から約6キロ離れた山の頂上にヘロデ大王が築いた<マケルス要塞>の牢獄であったらしい。だが、いったいヨハネはどうして牢に入れられたのだろうか?

その辺の事情は、マタイ14章に説明されている。「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」3-4節)。

このヘロデは、イエスが生まれた時にユダヤの王であった有名なヘロデ大王ではない。息子でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスである。彼は、腹違いの兄弟がまだ生きているうちに、その妻ヘロディアを自分の妻としてめとった。モーセ律法には「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのである」レビ記20章21節)とあるから、彼がしたことは明白な律法違反になる。そこで、ヨハネは面と向かって彼を批判した。それが逆恨みを買って投獄されたのである。後にヨハネは、「いつかは・・・」と殺す機会を狙っていたアンティパスの企みに落ち、あたかも宴会の座興のようにして首を切られてしまう(14章6-11節)。

現代では、世界のほとんどの国で曲がりなりにも民主主義のルールが行われているから、ヘロデ・アンティパスがやったような非道なことは流石に少なくなった。しかし、権力を握ると人はしばしば人の道を踏み外し、正義に逆らう。この点は、昔も今も変わらない。それを見逃さない鋭い目を、我々は持たなければならない。

洗礼者ヨハネは、そのような鋭い目を持っていた。マタイ3章によれば、彼は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」4節)といった異様な姿でユダヤの荒れ野に現れ、「悔い改めよ」2節)と叫んだというが、その頃から彼の言葉の矛先は権力に向けられていた。だからこそ、ファリサイ派やサドカイ派の人々(当時の宗教的権力者たち)が大勢洗礼を受けに来たのを見て、ヨハネは厳しい調子で、まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」同7節)と言い放ったのである。

ヨハネは真実な人物であった。今日のテキストに続く7節以下で、イエスはヨハネの真実さを大いに評価している。ヨハネは時代の趨勢に順応するだけの、「風にそよぐ葦」7節)のような人ではない、また、「しなやかな服」8節)を着て王宮にいる支配階級の人たちに取り入るような人でもない、と言う。たとえ相手が権力者であっても、神から預かった言葉をそのまま語る「預言者」である。いや、「預言者以上の者」9節)だ、とイエスは言う。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」11節)というのも、まんざら誇張ではない。

だが、その真実なヨハネが、今や権力者の手に落ちて、獄に閉じ込められている。それがこの世の現実である。<マケルス要塞>の頑丈な壁は、この動かし難い現実の象徴のようであった。その現実を変えるなどということは、まず不可能だ。この絶体絶命の状況の中で、ヨハネは何を思っていたのだろうか?

彼が活動し始めた頃、自分は水で洗礼を授けているが自分の後からもっと優れた方が来る、と言ったことがある(マタイ3章11節)。「もっと優れた方」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことだ。そして、その方は「聖霊と火で」洗礼を授けるような仕方で、つまり、徹底的に、罪と偽りに満ちたこの世界を生まれ変わらせるだろう、とヨハネは信じた。彼にとって、イエスは約束されたメシアであり、やがて世界を新しく変えるために「来るべき方」であった。

そのイエスに関する噂は、獄中にも伝わって来る。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」2節)。それは、ある意味ではヨハネの慰めであった。だが、彼が日ごとに体で感じている現実は、その逆である。彼は、正しいことを言ったために牢に閉じ込められて、手も足も出ない有様なのだ。世界は少しも変わらない。相変わらず悪に支配されている。これが目の前の現実であった。

ヨハネは、この現実を前にして揺れていたのではないか。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」3節)という問いは、その「揺れ」を物語る。

それに対するイエスの答えは、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、・・・貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」4-6節)というものであった。

これはイザヤ書35章の引用である。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒地に川が流れる」3-6節)。なんという力強い約束であろう!

イエスは、このイザヤの預言は必ず実現する、と言われる。いや、約束の成就は、ご自分が日々行っている業において既に始まっている、すなわち、「目の見えない人は見え・・・貧しい人は福音を告げ知らされている」という一つ一つの業の中に既に始まっている、と言われるのである。目の前の暗い現実に目を奪われて、既に東の空に射し始めている神の国の光を見逃してはならない。「わたしにつまずかない人は幸いだ」とイエスが言われたのは、そういう意味である。



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