今日の箇所には、イエスが十字架につけられるためにエルサレムに入る場面が描かれている。そのとき、イエスは子ろばに乗っていた。その経緯は、マタイによるとこうである。――イエスの指示に従って弟子たちは「向こうの村へ行き」(2節)、そこでイエスが言われた通りにろばと子ろばを見つけ、その「ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった」(7節)。
マタイはこの場面を、ゼカリヤの預言の成就として書いた。「見よ、お前の王がお前のところにお出でになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」(5節)というくだりは、少し違うところもあるが、ゼカリヤ書9章9節の引用なのである。先ほども朗読したが、少し丁寧に再読してみたい。
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。
ゼカリヤにとっては、「ろばに乗る」ということに重要な意味があった。先ず、それは「高ぶることなく」という姿勢の表現である。勇ましい軍馬には乗らず、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」。同時に、「戦車」・「軍馬」・「戦いの弓」など、当時としては最強の兵器を廃絶することが神の意志だ、ということである。「エフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれる」。これは、世界の常識に反することかもしれない。しかし、常識を覆すような、驚くべきことを実現する方が来られるというのである。「見よ、あなたの王が来る」! この王は、軍事的な手段で敵対する者たちを無理やり屈服させることはしない。神に従って、謙虚に、また穏やかに相手と対し、遂には「共に生きる」道を見出す。この方法で彼には「勝利が与えられる」。そして、「諸国の民に平和(シャローム)が告げられる」。だから、喜び踊れ!
マタイが、この「王」を主イエスと重ねて見ていることは疑えない。
ここで、ロバについて少し述べておきたい。ロバは小型の馬である。耳が長いので「ウサギ馬」とも呼ばれる。気質が穏やかで粗食にもよく耐えるので、古くから飼育され・愛された。私は少年の頃、満州で1年ほど暮らしたことがあるが、そこではよく見かけた。今でも、ギリシャやバルカンの田舎に行くと見かけることがある。
ロバは大型の馬とは違ってスピードは出ないし、「のろま」だから、軍馬には全く向かない。戦争には役に立たず、もっぱら農作業や荷物の運搬など人々の平和な日常生活の用途のために黙々と働いた。
イエスは十字架を控えた彼の人生の正念場において、そのようなロバに、しかも子ロバに乗ってエルサレムに入って来たという。このことは象徴的である。
以前、題はもう忘れたが、イタリヤの映画を見たことがある。第二次大戦中に、20名ほどのイタリヤ軍の小部隊がギリシャ沖の離れ小島に進駐したときの話である。老兵や元脱走兵などから成る札付きの弱兵集団で、虎の子の無線機は上陸した時に壊してしまうし、見張りをさせれば居眠りをするし、些細なことで仲間同士大声を張り上げて喧嘩はするし、全くどうしようもない。
第二次大戦後、ドイツ人が日本人に会って、「今度戦争をやる時はイタリヤ人抜きでやろう」と言ったという小話がある。日独伊三国同盟のことを皮肉ったのである。正直に言えば、私はこの映画を見ながらこの小話を思い出してニヤニヤしていた。
幸い、その島には何事もなく、無線機が故障したお陰で世界のニュースも入って来ないから、皆好きなことをしてのんびり暮らしている。絵を描くのが好きな部隊長は、毎日スケッチに余念がない。島の教会の神父に頼まれて、教会堂の壁画を描いたりしている。島の娘とねんごろになって結婚する兵士もいるし、日光浴をして一日を過ごす兵もいる、といった調子である。
しかし私は、この「どうしようもない軍隊」の映画を見ているうちに、いつの間にか、穏やかな・優しい気持ちになっていた。やがて来るべき新しい世界は、強い軍隊などを必要としない世界である。どうかそうであって欲しい。この映画はそのことを訴えているように思われた。
忘れ難い場面がある。ナチス・ドイツや日本の軍隊ではおよそ考えられないことだが、一人の兵士がロバを一頭連れてこの部隊に加わっているのである。寝ても覚めてもそのロバと一緒にいて、可愛がっている。哀れなことに、このロバはごく早い段階で、しかも間抜けな味方の誤射によって命を落とすのだが、イエスが乗った子ろばとも重なって、私には来るべき新しい世界の象徴のように思われた。
この世界では、軍事同盟や強い軍隊がまだ必要だと考えている国が大部分である。その現実は、私も認めざるを得ない。だが、神は、そんなものを必要としない世界が必ず来ると約束された。子ろばに乗って来るイエスは、その約束の象徴なのである。そして、このような方が世界の現実の只中にお出でになったと信ずる我々は、新しい世界のメッセンジャーとして走らなければならない。
預言者イザヤも、「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、主を尋ね求めようとしない」(イザヤ書31章1節)と言っている。これこそ真理なのである。